フリークスの楽園
● フリークスの楽園
例えば、折原臨也という人間ではない、まったく別の何かになれば、何のわだかまりもなく傍にいられるだろうか。そんな愚にも付かないことを考えたりもした。
静雄の住む賃貸アパートに戻ると、静雄はキッチンで昼食の用意をしているようだった。
「ただいま、シズちゃん」
声をかけると、静雄は驚いたように臨也を見て、そしてちょっと複雑そうな顔をしてから、笑った。
「…おう」
「お腹減っちゃったよ」
「手ぇ洗え。…新羅、なんつってた?」
「んー…、まあそのうち戻るんじゃない? って」
「いい加減だな…」
また嘘を重ねた。臨也にとって、嘘をつくことなんて恒常的なものだったが、この嘘は自分をも苦しめる。
それでも、どうしてもこの楽園を、追放されたくはないのだ。
それに静雄は、臨也の言葉に安堵しているようだった。朝は、新羅に早く治してもらえ、と言っていた静雄だが、やはり彼も、この空間が心地いいのだろう。
小さなテーブルの上には、既に何枚かパンケーキが積み上がっており、いい匂いがした。よくよく見てみると、ふっくらと焼き上がっているものもあれば、多少膨らみにかけるものもある。器用なのか不器用なのか微妙な静雄らしい。一枚を勝手に手にとって食べる。ちょっと不恰好なそれは、甘くて、美味しい。
臨也がつまみ食いをしたことに気付いた静雄が、妙に不器用に果物を切り分けながら、振り返った。臨也を咎めようとしたその瞬間に、小さく声を上げる。どうやら、指先を切ってしまったらしい。
「シズちゃん、大丈夫?」
「…ああ」
もともと暴力を振るい、振るわれることに慣れたこの男は、多少の傷で動じることなどないし、そもそも特異体質のせいで痛みなど感じていないだろう。だがそれを知らないという芝居を続ける臨也は、静雄の手を取って傷を見た。
「んー、深くないけど、消毒はしたほうがいいね」
「大したことないだろ」
相変わらず、自分の傷にはとことん無頓着な男だ。それでも、やはりこの男は、数時間後には綺麗に消えてしまうこの傷を、臨也の目に触れないように隠すのだろうし、臨也はそれに気付かないふりをするのだろう。
臨也は、ぷくりと赤い血の浮き出したその指先を軽く口に含んだ。静雄は慌てたようだが、「消毒だよ」と言うと大人しくなったので、調子に乗って、じゃれつくように軽く歯を立ててみる。
「猫かお前は」
ちょっと照れた顔をしながら呆れたように言うだけで、やはり静雄は怒り出したりしなかった。
「猫でもいいよ。シズちゃん猫とか好きっぽい感じがする」
「どっちかっつーと犬の方が好きだ」
「じゃあ、犬になる。そしたら俺をここで飼ってくれる?」
「…バカか」
こんな風に、ほんの少し優しく接してやれば、こんなに穏やかで優しくなってしまうのかと思うと、可笑しくなった。可笑し過ぎて声が震える。吐息が跳ねて、なんだか嗚咽みたいだ、と人事のように思う。
「臨也? …泣いてんのか?」
静雄が不思議そうに顔を覗き込んでくる。そんなわけないだろ、相変わらずバカだなシズちゃん。そう思いながらも、吐息の震えがおさまりそうにない。
つ、と静雄が、酷く不器用に臨也の頬に触れた。誤魔化しようのない涙を拭う。
「おい臨也、どっか痛むのか?」
驚きと慌てを滲ませた声で、まるでこどもを相手にしているみたいに問いかけてくる。それがまたやさしくて、ひどく、痛かった。
痛い、痛いよシズちゃん。
この痛みを訴えたいのに、臨也には言葉にするすべがない。代わりに、あからさまに動揺している静雄の肩を抱きしめて縋り、唇を合わせて静雄の熱を求めた。苦々しい自分の涙の味がする口付けだった。
悪いことをすると罰が当たるよ。それは本当だったのだと、今になって知る。甘く歪んだ楽園にあって、このなすすべのない痛みと苦しさが、罰の味だった。
(フリークスの楽園・完)