いつか勝つ
解放された七代が踏み止まり、その場にへたり込まなかったのは、完全に意地である。
「鍵さん、ぬしさまをいじめるのは良くないのですよ!」
まさにころりと鈴の転がるような声音。狛犬は、左手に毬を抱き、頬を膨らませて立っている。
「す、ず」
「鍵さん、ひどいのです、鈴の毬をとってこーい、なんて言ってすごく遠くに放ってしまったです……それを取りに行って、なかなか戻って来れなかったなのです。あんなに遠くに放られるなんて鈴は思いもしなかったのです。とってこーい、は好きなのです、けど、あんなに遠いとちょっと困ってしまうです、はうう」
「鍵…………」
七代は鍵を睨んだが、当の鍵は何処吹く風である。
「おや、そいつァご免なさいよ」
「……鍵、お前は、向こう半月は油揚げ無しの刑だから」
「そんな殺生な」
「まず自分のした事を猛省しろ!そしてやっていい時間と駄目な時間くらい読め!」
鍵をそう怒鳴り付け。
それから七代は鈴に向き直り、膝をついて視線の高さを合わせる。
「有難う、鈴、助かったよ」
「はわ……鈴はぬしさまのお役に立てたのです?」
「そりゃあもう」
「だったら鈴も嬉しいのです!」
幼い少女のかたちをした狛犬がそう言って言葉の通り、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
七代は鈴の笑みを見るたびに、この少女がごく限られたものにしか視認出来ぬ事をとても残念に思う。狛犬はこんなにあいらしい顔をしてふんわりと笑うのに。勿体無い事だ、と。
「…………ああ、まだ走ればぎりぎり間に合いそうだな」
傍らの鞄を拾い上げながら腕の時計を見遣って言う。
七代は鍵の顔を見たが、元凶は全く元凶らしからぬ微笑を浮かべていた。自分こそが元凶だというのに。七代の腹がまた少し煮える。
「もう行かれるのです?」
「うん、急いでいく」
「判りました、いってらっしゃいませなのです」
ぺこりと頭を下げて見送ろうとする鈴を、七代は軽く片手で抱きしめて返した。
いつもの挨拶のようなものなのだがこうすると鈴は決まって、少し困ったような照れたようなくすぐったそうな顔をする。
「行ってくる」
七代がそう言って鈴に手を振ると、鈴の隣で、大仰に両の手を広げているものがひとり。
「おや?坊、私にはしてもらえないんで?」
変わらず飄々と。時間があと五分もあれば、七代は至近距離から鍵へ容赦無く踵を叩きこむところなのだが。返す返すも鍵という狐の周到さが憎い。
「帰ってきたら絶対に泣かす」
「おやおや、楽しみに待っていやすよ、坊」
可能な限り視線に強度を込めて狐の顔を射抜き。それから七代千馗は徒競走のような勢いで鴉羽神社を走り去った。
あとに残るのは七代の靴底が噛んだ砂の弾ける音と、ゆらりと上る白い砂煙。
それをのんびりと眺めながら、狐が煙管を振る。
「………………全く、野暮な仔犬もあったもんだ」
舌打ち含みのあからさまな皮肉を、しかし狛犬は怯まずに受けた。
「ぬしさまをいじめるのは良くないのですよ。ふふーん、鈴は知っているのです、鍵さんのは、せくはらというやつなのです」
先刻、七代が吐いた意味の判らぬ単語を使って狛犬が胸を張ったので。
「、せくはら……」
さすがの鍵も、ほんの少しだけ、驚いた。