二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

ひぐらしのなく頃に 壊 姉探し編

INDEX|7ページ/11ページ|

次のページ前のページ
 

第六話








昭和59年。 母さんの容態は酷かった。それでも、同じ雛見沢出身の人々に比べるとマシな方らしい。 都会に、というか雛見沢から出て行った大体の雛見沢人は魔女狩りのような行為を受けていたと聞く。大災害によって生まれた「雛見沢症候群」という単語は雛見沢出身者に対する侮蔑の言葉として多く広く使われるようになった。


事実、雛見沢出身者の多くは奇行を起こしたり怪死したらしい。特に年配が多いとか。


オヤシロさまの信仰というのは年配の人の方がより信心深いものだったらしい。
信仰が深ければ深いほど暴走を起こしやすいというのが宗教の、無宗教の人から見たイメージの一つだ。彼らが奇行を起こしてしまうのも信心深さ故、必然的な行動だったのかもしれない。


それにしても動物を生け贄にしてオヤシロさまの怒りを鎮めようだとか、家の周りに大量の魔除けを貼ったりだと、奇行も過ぎると気味が悪いものだ。


母さんはオヤシロさまに関しては無関心というか無頓着というか、興味が無かったらしい。そりゃそうだ、オヤシロさまは村人が村の外へ出て行くことを禁じている。信心深けりゃそもそも茨城になんかくるはずはないだろう。
それでも災害後の迫害は行われる。村の信仰や事情など知らないものは、年配だとか信心深さだとかは関係ない、「雛見沢出身」であることだけが重要なのだ。ご多分に漏れず母さんも迫害の対象であった。


というか近所では母さん以外は雛見沢出身の人はいない。特に同郷の人々がコミュニティを作って迫害をしのぐという方法は出来ないし、また近所さんにとっても迫害の対象が一人であると言うのはいびりやすいので好都合と言う訳だ。
いや、一人というか私たち家族だったか。


それでも私と父さんへの迫害は母さんのものとは比べ物にならないくらい優しい。ただ、「なんであんな人と結婚したんですか?」とか「雛見沢出身の人から生まれて残念ねー杏菜ちゃん。」とか、非常に遠回しに、それも陰湿に嫌なことを言ってくるだけだった。


私はこういった発言に、幼稚園生ながら非常に不愉快に感じていた。父さんもそのようだった。
母さんだけは違っていた。そういった迫害にはなんの反応も示さなかった。


だってそんなこと全く聞いていなかったから。

否、聞けるような状態ではなかった。


雛見沢出身者は災害後、奇行を起こすという。それの引き金はオヤシロさまの信仰だ。
しかし母さんの引き金は違っていた。先ほどの通り、母さんはオヤシロさま信仰には全く興味のない人だ。


母さんの引き金は姉さん・・・・。災害で死んだと思われる姉さんの死が、母さんの、引いてはいけない引き金を引いたのだ。


とにかく母さんは姉さんの名を口にし、うわごとのように繰り返していた。
ご飯も喉を通らなかった。目も死んだ魚のようだった。
医者曰く、心が死んでいるらしい。原因は不明。引き金自体は姉さんの死ではあるが、どうやら精神病の類いらしい、その原因が不明だと言うのだ。


しかも母さんは自傷行為にまで手を出していた。痒いのか、とにかく首を掻きたがり、腕も掻きたがっていた。というか掻いていた、血が出るほどに。言っても聞かなかった、聞いていなかった、聞こえていなかったのか。
毎日毎日母さんは姉さんの名を繰り返し口ずさんでは姉さんに謝っていた。死なせてしまったのは自分だと思い込んでるようだった。


ただひたすら毎日母さんは姉さんに機械のように繰り返し謝り続けた。


そしていつも何かに怯えていた。何にかは本人にしかわからない。
とにかく何かを、否、全てを怪しんでいた。死んでいる姉さんの影に苦しんでいるのか、それとも誰かが自分を殺そうしているという被害妄想をしているのかよく判らなかった。


ともかくも、母さんの容態は悪化するばかりだった。心は病み、出血し、体は疲れきっていた。
目に見える衰えで、母さんは入院を余儀なくされた。院内でも奇行は止まず、自傷行為を止めることはなかったのでベッドに両腕を縛り付けられ、身動きのできないという情けない姿にされた。それでも母さんは自傷をしたがった。手のひらは疼くかのように常に動き回り、疼くと言って仕方のない首や腕に届くはずのないアプローチを仕掛けていた。


医者は脳の病気ではないかと言っていた。しかし詳しいことは全くわからず、未だ原因不明とだけ父さんに言った。


院内でも他の患者は雛見沢出身者と言うだけで近寄ろうとするものもいなくなった。もっとも母さんの部屋は隔離されたも同然な部屋なので近づこうと思っても容易に近づけるものではなかった。


脳の病気だとは言ったものの確定ではないらしく、感染症の可能性もなきにしもあらずだったらしい。それは遠回しに、医者すらも「雛見沢症候群」の存在を認め、怯えているようにも思えた。


そして数日後に、母さんは東京の方の病院に移転することになった。東京の方が機器が揃っているらしく、治療がしやすいという話だったらしい。もっともそれでも生存率は悲しい数字だったらしいが、一縷の望みをかけてということだろう、父さんは移転に同意した。


病院は色んな気配が殺到していた。明らかにそこにいる人数よりも気配の方が多かった。その時の私は気配を霊だと思っていなかったのでここでは気配と言うことにする。


東京の病院は気配も凄まじいものだった。母さんのように地方の病院から移転する人も多く、それで治る人も多いのだろうが、逆にここで亡くなってしまう人も多いのだろうか、そもそも東京の人口が多過ぎるからなのか、気配の数は地元の病院とは段違いだった。


母さんはこの病院では完全なる隔離という待遇で迎えられた。
隔離病棟に放り込まれたのだ。これはもう母さんが感染症にかかっている、ということの宣言でしかなかった。
東京に来たのは機器が揃っているからなんじゃないのか・・・父さんは一体何を聞いたんだ。


母さんは最早一般人は近寄ることの許されない場所にまで飛ばされてしまった。肉親の私たちでもなかなか面会を許されなかった。


そして最後の面会の日、真っ白な重装備を強制され、私と父さんは母さんのいる隔離病棟の病室へ足を踏み入れた。


何層ものビニールの壁が母さんを覆っていた。相変わらず体は縛られており、口には呼吸器が付けられて、脇の心電図が電子音を気色の悪いリズムを奏でていた。
誰がどう見ても末期と呼んでふさわしい状況だった。


「母さん。」


呼びかけに答えることはなく、母さんはいつものうわごとを続けていた。


「・・・・・・・な・・・・・・ん・・・・・・・・めん・・・・・・・・い・・・・・・・・・。」


「おかあさんっ。」


「・・・・・・・れ・・・・・・・・さい・・・・・・・・・ご・・・・・・・・・・・い・・・・・・・・・・。」


「おかあさん、ねえさんはいないよ。ねえさんはしんじゃったんだよ、ねえさんにあやまったってなんのいみもないんだよ。」