夜明け前
胸に抱えている不安や恐怖、いくら自分の歌の力で人が救えるかもしれないといっても、代償に自分の命を差し出せと言われているようなものだ。彼女はシェリル・ノームとしてそれを誇りに思うかもしれないが、軍人でもないのに死ぬとわかっていて滅私奉公などそうやすやすとできるものではない。軍人にだって確実に死ぬとわかっていたら逃げ出す者はいる。
怖くて当たり前なのだ。最初の夜のように怯える姿を見せたっていいのだ。外でどう振舞っていようと、自分の前では。
だが、絶対にそれはしようとしない。自分の目にシェリルが演じているのは明確だったが、それをあえて指摘して弱さを無理に曝け出させることが彼女にとって良いことか悪いことかわからず——どちらかといえば良いことではないような気がして——アルトは一歩踏み込めずにいる。
あの夜にはとても近く寄り添った気がしたのに、寄り添いたいと思えば思うほど、シェリルが引いてしまっているように感じる。
「ん……」
小さく唸って彼女が寝返りを打った。こちら側に向けられた寝顔は意外とあどけない。無防備に小さく開いた唇が愛らしい。
アルトは彼女に手を伸ばし、その滑らかな頬に触れた。死に至る病を患っているとは思えない、白く、ほのかに薔薇色に色づいた頬。
――死なせない。失いたくない、お前を。
「……アル、ト?」
頬に触れた指にぴくりと身じろいで、シェリルが自分の名を呼ぶ。
「悪い、起こしちまったか」
反射的に手を引きかけたが、シェリルはその手を握って引き寄せると、幸せそうに微笑みながら掌に頬を摺り寄せた。
「シェリル……」
そして、手を握ったまま、再び眠りに落ちてしまった。
子供のようなその仕草に、アルトは泣きたいような気持ちになる。
何故、こんなことに。シェリルの病気も、バジュラの襲撃も、ボロボロになったフロンティアも。そしてこんなあどけない顔をして眠る彼女を最終的に救う術を持たない自分も。
彼女をただ愛おしく思う感情が胸にこみあげてくる。
今なら迷いなく言える、彼女を愛している。
流されたのでも同情でもない、ルカと同じ、愛する人を守るために、愛する人が守ろうとしているフロンティアを守るために、ここにいる。
例えきっかけにそういったものがあったとしても今はもうそれだけではない。同情だけで相手に求められるまま恋人を演じ続けられるほど自分は器用でも不実でもない。愛したからただ側にいてやりたい、側にいたい、それだけだ。
けれど彼女にそれを伝えてもきっと彼女は正しく受け取らない。受け取れない。こんな時だから。こんな状況だから。
――なんでもっと、早く。
バジュラの攻撃はあったもののまだ大分平和だったあの頃。あの頃に彼女に愛していると告げていたらどうなっていただろうか。
いや、あの頃はまだ愛しているとはいえなかった。まだ一人で飛べると信じ、それでいいと思っていた。それこそこんな時だから、こんな状況だからこそ彼女を深く知り、人を愛することを知ったのだ。
愛していると自覚しても動けない自分と同様に、シェリルもジレンマを抱えているのだろう。それが二人の間にどうしても寄り添えない一歩分の距離を作っているのかもしれない。
時間はきっとあまりない。それはわかっている。それでもこんな気持ちを抱くのは初めてで、なのにとても困難な状況で、アルトはどうすればいいのかわからなくなっていた。
――こんな時に、お前がいてくれれば……ミシェル。
彼に訊いたらどう答えただろうか。だが、彼ももういない。愛するものを文字通り命がけで守り、逝ってしまった。誰にも訊けない。自分で決めて、自分で動かなければいけない。
「――俺は……」
ただ一つの気持ち以外に答えは出せないまま、途方に暮れたようにアルトは呟いた。けれどその先はまだ紡げない。
答えを出さねばならない日は、きっと近いのだろうけれど。
END