ゆは夢のゆ
自分の部屋に戻ったのは、感覚的には十日ぶりだ。実際のところ、こちらでは数瞬も経っていないのだが。
多分ほんの十数分前にはいたのであろう自分の部屋で、有利は瞬きをする間に過ごした十日間に思いを馳せる。
——どうして、水を通らないとあっちと行き来できないんだろう。
さっきまで、本当にさっきまで、きっと自分の身体には彼の匂いがうつっていたのに、風呂から風呂に抜けた今、かけらすら感じられないのが少し淋しい。
ベッドに仰向けに寝転び、溜息をつく。まだ湿っている自分の髪をつまむが、きっとそこからは先ほど諦めてしたシャンプーの香りしか漂ってこないだろう。
天井に向けて、両腕を差し伸べる。広げた指の間からはただ、見慣れた天井が見えるだけ。
『ユーリ』
ほんの十数分前には、ここに、コンラッドがいたのに。
肌を他人に見られることが多いから痕は決して付けられなかったけれど、身体の奥、自分でも触れられない箇所へ、彼に与えられた感覚はまだ残っている。いっそ生々しいほどに。
彼はここにはいない。移り香も残っていない。彼に注ぎ込まれた残滓は、洗い流した後だ。
『……ユーリ』
彼が囁く声も、彼の体温も、彼の匂いも、合わせた肌の感触も、全てリアルに覚えているのに、それは逆を言えば記憶にしか残っていないのだ。
会えない。もう会えない。次にいつ会えるかもわからない。自分の力ではどうにもならない。
有利は両腕をクロスさせるようにして顔を覆った。ぎゅっと目を瞑る。
こんなタイミングで帰りたくなかった。いつもみたいに、みんなでバタバタしてるときや、事件が解決して一件落着したときに、楽しい気分だけ持って帰りたかった。二人で過ごした甘い時間を引きずったまま帰りたくなかった。いってきますの一言も言えずに。
耳の奥で彼の声がする。それはただの空耳に過ぎない。記憶にある彼の声を、ただ再生しているだけだ。
有利は胸元の魔石をぎゅっと握る。ただひとつ、彼の存在を感じられる証。
「……コンラッド」
こんなに深く心を奪われるなんて思ってもいなかった。
初めて会ったときに感じたのは恋の予感などではなく、ただどこか懐かしい思いだけ。なのにいつしか、深い信頼はかけがえのない気持ちに変わっていた。
彼が好きだ。
初めて覚えた行為に惑わされているわけではない。むしろ彼の方が消極的だった。自覚するなり気持ちをおさえきれなくなった有利が、快感を欲してではなく、好奇心からでもなく、ただ好きだからもっと触れたくてもっと近付きたくて、よくわかりもしないままに求めた。
『ユーリ……ユーリ』
彼が自分を呼ぶ声が、胸の中で何度も何度もリフレインする。二人でいるときの、甘く優しく呼ぶ声。
「コンラッド」
有利は魔石を握る手を強めた。突然のスタツアなんて慣れたと思っていたのに、どうしようもなく押し寄せる喪失感を耐えるために。
* * *
水音のしなくなったバスルームを、もしや、と思い覗いてみた。
「——ああ」
帰ったのか、彼は。彼のもうひとつの世界へ。
額に手をあて、深く息を吐く。そして先刻まで二人でじゃれあっていたベッドへ戻り、腰を降ろした。
シーツはまだ乱れたまま。きっと枕には彼の甘い香りが残っている。抱き締めた感触もまだ腕にある。
コンラッドは両掌を見詰めた。
さっきまで彼はここにいた。まだ十数分も経っていない。
けれど、彼はもういない。コンラッドの力では会いに行くことのできない場所へ戻ってしまった。次に会える保障などない。いつ来るのか、来られるのかもわからない。いってらっしゃいすら言えなかった。
——次に会えたら、絶対に一人で風呂に入れるのはやめよう。
『してるときとか何でもなく風呂に入るときは見られても平気だけど、した後ってなんか恥ずかしいだろっ』
何度身体を重ねても物慣れない彼は、シーツで身をくるみ、逃げるようにバスルームにこもってしまった。
『自分でちゃんと奥まで洗える?』
からかうように声をかけたら、そんなこと言うならもう中出し禁止するからと、どもりながら返してきた。いつも最終的に中に欲しがるのはユーリの方だけどね、とは突っ込まずに、幸せな苦笑を零しながら彼が出てくるのを待っていた。なのに。
真っ赤になって可愛かった彼を思い出してふ、と口元が緩む。そうだ、次のときには——と思った瞬間、不安が心の隅をよぎった。
次はあるのか、本当にまた会えるのか。
コンラッドは首を振った。何の保障もなかったけれど、それでも彼はちゃんと十五年の年月を経て、自分のところへ来てくれた。確証もなく待ち続けた十五年を思えば、次の機会を待つのなど……——
いや、とコンラッドは瞳を揺らす。
知らなかった十五年と、知って渇望する数週間、数ヶ月。どちらの方が待つのが辛いかなど言うまでもない。待っていた十五年と今とでは、彼を待つ意味も違う。
けれど逆に、知ったからこそ、その幸せな記憶を持って待つこともできるともいえる。要は気持ちの持ちようだ、と自分に言い聞かせる。
腕の中から消えるように戻ってしまった彼。だから今は喪失感に苛まれているが、彼を待つことができる自分はきっと幸福だ。失ったのではない。たとえ彼が二度と、もう二度と眞魔国へやってくることがなくても、長い人生を終えるまで二度と会うことがかなわなくなったとしても、そしてもしも——もしも、こちらにおいてさえ彼の側にいることが叶わなくなったとしても、それでも今の自分には十分すぎるほどに大切な記憶があるから。
コンラッドは乱れたベッドの上に身を横たえる。今日はこのまま眠ろう。彼を腕の中に抱いて朝を迎えるはずだったけれど、それがかなわないのならまだ残る彼の気配を抱いて。
『……コンラッド』
はにかむように自分を呼ぶ彼の声が耳の奥でする。それだけで胸が温かくなってくる。
「ユーリ、おやすみ……」
どうか、あちらの世界でいい夢を見られますように。悪夢を見ても、自分は側で慰めてあげられないから。どうか彼に、幸いが降り注ぎますように……——
* * *