ふたりで。
今日も帰宅は深夜1時を大幅に回ってしまった。
幸いどうにか終電には間に合ったので会社に泊まりこみにならなかっただけマシだが、これで明日はまた普通に出社しなければならないのだから嫌になる。一日、二日のことではなく、こんなスケジュールがもう長いこと続いていて、良くも悪くも身体は慣れたが慣れたからといって決して楽なわけではない。心も体も荒む一方だ。
溜息をつけば息が少し白くなる。ゆっくりと休日をとれたのはまだ半袖を着ていた頃じゃなかったか。そう思うと寒さを余計に感じ、伊月は上着の前を合わせる。
マンションの廊下も静まり返っている。平日でも夕方から夜にかけては子供たちの声も時々聞こえるのだが、こんな時間では少し離れたところにある幹線道路からの車の音ぐらいしか聞こえない。
冷えた手で玄関の鍵を取り出し、あまり音を立てないように気を付けながらマンションの部屋へ入る。もう何日もマトモに顔を合わせてもいない同居人は子供相手の仕事なので完全に朝型だ。この時間に変に起こしても申し訳ないので、深夜の帰宅はいつも気を遣う。
夕飯は食いはぐれたが、キッチンをいじるのも同じ理由で躊躇われた。今日もウィダーでいいか、と思いながら靴を脱ぎ、ふとリビングに続くドアを見たら明かりが漏れている。時間も時間だし、珍しく消し忘れたのかなと思いながらドアを開けると。
「おかえりー」
こちらに背を向けてソファに座った日向が、振り向きもせずに言った。
「た、だいま……って、今何時だと思ってんだよ! 明日も朝練あるくせに何起きてんだ」
言いながら、テレビの画面が目に入った。流れているのはJBLの試合。懐かしい顔があったので、それで見ていたのだろうというのはわかったが。
「どうせ今リアルタイムで試合やってるわけじゃないんだし、録画しといて後で見ればいいだろ。高校教師は早く寝ろよ」
伊月がHDDレコーダのリモコンを取ろうとすると、日向がその手首を掴んできた。
え、と彼を見ると、予想外に不機嫌そうな顔をしている。
「元々録画したの見てるからいいんだよ、そんなの」
そして手首を握ったのと逆の手でリモコンを取り、TVを消した。廊下にも聞こえなかったぐらい控えめなボリュームで流れていた実況と歓声が消え、部屋の中に静けさが満ちる。握られた手首の熱が、少し上がった気がした。
日向が伊月の手をぐいっと引き、座れ、と言うのでソファの隣に座ろうとしたら更に手首を引っ張られた。バランスを崩して日向の膝の上に倒れこむと、そのままよいしょ、と日向の腿をまたぐような形で向かい合って抱きかかえられてしまった。
「――ほんと、軽くなっちゃってまあ」
呆れたように日向が言う。
「バスケやめて何年経つと思ってんだよ。筋肉相当落ちたからな、軽くもなるよ。ぶよぶよにはなってないと思うけど」
「だアホ、ぶよぶよぶなった方がまだある意味安心できるっつーの。お前なんだこの軽いの。この細いの」
彼が伊月の腰に腕を回してぎゅ、と抱きしめてくる。久々に感じる彼の体温にどきどきするよりも先になんだかやっと自分の居場所に帰ってきたような安堵を覚え、伊月は日向の肩に頭を預けた。
彼が伊月の背中のラインを優しく撫で、はぁ、と耳元で深く溜息をつく。
「ガリガリじゃねーかよ。骨とか浮いてるし」
「……抱き心地悪かったらごめん」
「そんなん言ってねーだろ」
べし、と頭を叩かれた。それでも抱きしめる腕が緩まないのが嬉しい。もう少しこうしていられたらいいな、と瞳を閉じかけて、ふと伊月は我に返り、伏せていた顔を起こして日向の顔を見る。
「ていうか日向、こんな時間まで起きてて大丈夫なのか? オレは定時でもわりと遅めだからいいけど、お前起きるのこれからだと何時間後だよ」
伊月は基本10時出社だ。なのでこれからでも5、6時間は眠れるが、 日向はバスケ部の朝練もあるので、彼の勤務する学校に比較的近いマンションを借りているとはいえ、もうたいして眠れないだろう。ましてやデスクワークの伊月とは、社会科の教師とはいえ一日の運動量が違う。
「お前と違って普段たっぷり休んでるからな、一日ぐらいどーってことねーって」
見慣れた穏やかな笑顔を浮かべて、日向が伊月の髪を撫でた。
「……さすがに最近ちょっとやばそうだったし、お前が帰ってくんの待ってたんだよ。メシもどーせ食ってないんだろ? こんな時間だと胃に負担かかるかもしんねーけど、作ってあるから後でも朝でもいいからちゃんと食え。無理なら昼に持っていけるように弁当にしてあるから」
久しぶりにこんな近くで見る彼の笑顔。感じる体温。優しい声。嬉しいような切ないような気持ちが混ざり合って、胸が熱くなる。
「――悪い、心配かけたな」
しおらしく謝る伊月に、彼はこつんと額をぶつけた。
「いて」
「心配しない方がおかしいだろ。夜オレが寝る時間に帰ってくることはめったにねーわ、買い置き食料はウィダーばっかりガンガン減ってるわ、朝部屋を覗けば青白いようなやつれた顔してオレがキスしても気付きもしねーで死んだように寝てるわ」
途中までは気付かれていたのかと心配かけたことに申し訳ない気持ちで粛々と俯いて聞いていたが、最後の言葉ではじかれたように顔を上げる。
「ちょ、キスって……! ひとが寝てる間に何やってんだよ!」
「同棲してる恋人にいってきますのキスして何が悪いんだよ。出来れば寝てない状態でしたいけど」
言って、日向はちゅ、と軽く音を立てて伊月の唇と軽く触れ合わせた。
「ひゅ……っ!」
掠める程度のものでも自分にとってはいつ以来になるかわからないキスに、伊月の顔が赤くなる。日向は楽しそうに笑い、
「久しぶりに見るわ、オマエのその表情。頑張って起きてた甲斐があったな」
と嬉しそうに言った。そしてそれに反論する間も与えずに、伊月の後頭部を抱き寄せると、今度はしっかりと唇を重ね合わせる。
「……ふ…ぅん…っ」
歯列を割って入ってきた彼の舌に翻弄される。もうキスなんて慣れたはずなのに。飽きるほどしてきたはずなのに。それでも、ただほんの少し唇が触れ合い、舌先を絡められただけで、胸だけでなく身体が熱くなってくる。
彼の背にすがりつくように抱きついて、自分からも舌を絡める。吸い上げ、甘く噛み、くすぐり、お互いの唾液が交じり合うのも、口の端から顎へ伝い流れるのも気にせず、ただ求め合う。
腿をまたいで座っているので、身体を寄せればお互いの熱がたかまってきているのもわかる。今すぐにでもそこに触れて、口ででも手でもいいから彼を愛したかった。そしてできるならその熱いもので自分を貫いてほしかった。だが、そうするには時間が遅すぎる。翌日のことを気にもせず限界まで抱き合っていられた頃とは違う。社会人としての責任はきちんと果たさねばならないし、そのための自制も覚えた。昔のように突っ走りたい気持ちは多分お互いにあるけれど、あえて無茶はしない。無茶をしなくても一緒にいられるし、この先もずっと一緒にいるつもりでいるから。