信じる勇気(サンプル)
使っていた用具を全て体育倉庫にしまい、倉庫の鍵をかける。
「あの、ありがとうございました! 片付け手伝ってもらっちゃってすいませんでした」
倉庫の入り口を背にして身を縮こまらせながら深々と頭を下げる桜井に、今吉は腕を組んでうーん、と唸った。
「え、あの……」
何か粗相をしたのかとおろおろする桜井に、今吉は少し不機嫌そうな口調で訊いてきた。
「片付けの礼は別にええねんけど、それより桜井、あんな、今日何の日か知っとるか」
「え! え、あの、」
突然の質問に戸惑う。何の日って。世間的にいえば、桜井的にいっても、その答えはひとつだけれどもこの場での質問としては場違いな気がして答えるのを躊躇する。が、じーっと細い目で見詰められて、桜井はおずおずと答えてみた。
「……バレンタイン、とか……?」
「せや、バレンタインや。桜井は女子からもらったんか?」
「あ、はい、あの、クラスの子からいくつか。あと桃井さんがみんなにって……」
「アイツのチョコって、まさか手作りとちゃうやろな?」
「それは大丈夫です、既製品でした」
試合の丸ごとレモンを始めとして、この一年ときどき桃井のとんでもない料理センスを見せ付けられてきた部員たちはちゃんと製造元のシールがついているそれにほっと胸を撫で下ろしたものだ。
「ふーん。で、桜井は?」
「え? え、あの、ぼくですか。えっと、クラスの子のも多分全部既製品だったと思います。どうせ義理チョコだし」
質問の意図がまたも掴めず、とりあえず手作りかどうかの線で答えたら、ちゃうちゃう、と苦笑された。
「桜井は? くれへんの、ワシに」
「え……っ」
まさか今吉から催促されると思っていなかったので、桜井は言葉に詰まった。
「え、あのすいません、えっと、その」
「せっかくのバレンタインやしたまには自分から誘ってくれるん待っとったのに、メールのひとつもなしで自主練習やもんなあ、がっかりやわ」
はー、と溜息をつく今吉に桜井は慌ててすいませんすいません違うんですとあわあわしながら言い訳をする。
「あの、チョコはその、部室のロッカーにあるんですけど、キャプテンもう自主登校だし大学の練習行ってるかもしれないし……っ」
身体の前で手を組んでもじもじしながら答えていたら、顔の後ろの壁に手をついて、今吉が桜井の顔を間近から覗き込んできた。
「のー桜井、バスケ以外はなんでそんなに覚えが悪いん? さっきも言うたよなあ」
「あ……すいません、あの、今吉先輩……」
「ちゃうって、他の呼び方教えたやろ」
ほんの少し今吉の声のトーンが変わった気がして、桜井はどきっとする。それはまるで、そういうときのような。でも、そんな風に感じてしまった自分が恥ずかしくて、気取られないように平静を装って答える。
「え、あのすいません、でもそれ、その、ふたりっきり、のときにって……」
「今ここに誰かおるん?」
言われて思わず視線をめぐらす。片付けのときに半面の灯りを落とした体育館には、当然のごとく自分と今吉しかいない。冬ということもあり全てのドアも窓もしっかり閉めてあるため、外から覗かれもしない。
「な? りょーう」
下の名前を伸ばして呼ばれて桜井は耳まで赤くなる。だってそんな風に呼ばれるのは、本当にそういうときばかりで。でも、ということは、求められているのはやっぱり。
「あの……えと、その、しょ、翔一さ、ん……?」
「よしよし、素直なええ子やな、良」
今吉がご褒美とでもいうかのように額にちゅ、と唇で触れた。ひゃ、と変な声が出そうになって慌てて首を竦める。近すぎてどうしたらいいのかわからなくて落ち着かない桜井の顎の下を、壁についていない方の指先でまるで猫にそうするかのように撫でられて、桜井は思わずぎゅっと目を瞑った。息がかかりそうなぐらい近いところで今吉が笑う気配がする。
「……目つぶったりして、キスしてほしいん?」
耳元で囁かれてうわっと後ずさろうとしたが、顎に触れていた手が素早く腰を抱きかかえてきたので逃げられなくなってしまった。
「あのっ、あの、えっと」
「あのあのえっとじゃわからんて」
作品名:信じる勇気(サンプル) 作家名:葛原ほずみ