そんな『幸せ』もある
「まだいたのか金……いつまでそうしている?もう犬質の役目は終わりだ。さっさと餌でも貰いに行くなり、好きにするがいい」
「ワン!!」
それまで大人しく望美に抱えられていた金は、泰衡に言われた途端にするりとその腕から抜け出して外へ行ってしまった。これで正真正銘、部屋には二人だけ。
「…………………………あの、泰衡さん、怒ってます?」
「怒ってはいない。呆れてはいるがな」
暫しの沈黙の後、恐る恐るの問いかけにあっさりと返される答え。「うう、やっぱり…」と落ち込む望美をちらりと見遣り、
「まあ、あなたがそういう性格だという事は、これまでで散々思い知らされているからな。今更どうこう言う気も無い」
引っ掛かりを覚える言い方ではあったが、こちらに非があるのは確かなので反論もできない。けれど悪いと思ったら素直に謝るのが望美の良い所だ。
「あの……いきなり押しかけて、お仕事の邪魔してごめんなさい!!これからは、もう少し落ち着いて行動するように心がけます!!」
「是非そうしてくれ。…………時に、明日は何も予定は無いな?」
「えっと、はい、何も無いですけど?」
「そうか、ならば朝餉の終わる頃にでも迎えに行く。支度をして待っていろ」
「ええと、それは一体どういう……え、あれ、もしかして?!」
いきなり「迎えに行く」等と言われて混乱しかけた望美だったが、ようやくその意味に気づいて顔を輝かせた。 要するに、明日どこかへ連れて行ってくれるらしい。実に彼らしい、分かりにくい言い回し。
もう少し素直に「一緒に出かけよう」くらいは言えないものだろうかと思いながら、それでも誘ってもらえたことが嬉しくて、途端に元気になる望美。
「わかりました、ちゃんと支度して待ってます!!って、泰衡さんが迎えに来てくれるんですか?部下の人とかじゃなくて?」
「何か不満でも?」
「そっ、そんなことありません、もの凄く嬉しいです!!あ、そう言えば、行く先はもう決まってるんですか?」
「――――――…………………ああ」
「あの、今のもの凄い間は一体?」
「――――先日銀が、もう山桜も満開だ等と余計な報告をしてきた」
「?」
「約束を………したからな。束稲山の山桜を、共に見に行くと」
“約束”
その言葉を聞いた瞬間、よみがえるのはあの秋の夕暮れ。
散歩に出かけた先で偶然出会い、思いがけなく山一面の桜の話を聞いて どうしても見てみたいと思った。他の誰でもなくて、この人と一緒に。
『――そうだな。この桜が咲く頃に、もし戦が終わっていたなら………』
無理を承知で誘ったら、初めは断られたけど最後にはそう言って承諾してくれた。
その時の、今まで見たことが無いくらいに優しい表情と、どこか遠くを見る様な瞳が忘れられなかった。
「なぜ、そんな顔をする」
「え……?」
そんな顔とは、どんな顔のことだろう?
今自分がどんな顔をしているのか、望美には分からなかった。約束を覚えていてくれてとても嬉しい、だけど同じくらい何故だか胸が詰まって、切ない気持ちになる。
伸ばされた泰衡の指が、彼女の頬を拭った。それで初めて自分が泣いていたのだと分かった。その少し不器用な指の感触が心地よくて、違う意味で泣きそうになったけれど、また呆れられてしまいそうなのでなんとか我慢した。
「さっきから百面相だな、あなたは」
「え、そ、そうですか?」
「怒って笑って泣いて……忙しいものだ、全く」
呆れたような、でもほんの少しだけ優しい微笑。
本当に有るか無しかの淡い笑みだけれど、それでも以前のような嘲笑や冷笑とは、明らかに違う表情だったから。
「ふふ、本当ですね、大忙しです」
だから、ちょっとだけ涙声のまま、つられて望美も笑った。
「あ、銀をあんまり待たせたら悪いですね。早く行かないと!」
泣いたことが照れくさいのか、まだ乾いていない頬をごしごしと乱暴に拭う彼女の手を捕まえると、もう片方の手でもう一度、そっと拭いてやる。
「その様に乱暴にしては、余計に赤くなるだろう。考え無しも大概にしろ」
「はい……重ね重ねごめんなさい、今後気をつけます」
「期待はしない。高館まで送る、もう行くぞ」
そう言うと泰衡は、そのまま―片方の手を掴んだまま―歩き出した。
「わ、ちょっ、や、泰衡さん?」
思いもよらない事態に真っ赤になって慌てる望美をよそに、泰衡は振り返りもせず、何事もない様な顔でつかつかと歩いていく。そして歩きながら思い出した様に、
「そう言えば、先程の要求の件だが」
「要求?って、名前で呼んでくださいって言ったことですか?」
「そうだ。基本的に俺の意見は変わらん。だが―――」
言いかけて、彼らしくなく束の間口篭る。その時、望美は気が付いた。真っ直ぐ前を見て歩くその人の、少しだけ見える頬の辺りが、ほんの僅か赤いことに。
「だが………二人でいる時くらいなら考えなくもない、と言っておこうか」
「!!」
声も出ない程驚いて、これ以上ないくらい目を丸くした望美は、けれど次の瞬間花が咲き零れる様に微笑んで。
なんて厄介なんだろう、この人は!!照れ方まで分かりにくいなんて、筋金入りにもほどがある。だけど、そんな所もまた愛しいなんて思ってしまう私がいるんだから、ああもう、本当に――――――
「本当に…………我ながら、良い趣味してるよね」
「何か言ったか?」
「いいえ、なんにも。明日、晴れるといいですね!!」
「―――そう、だな」
繋いだ手と、心地よい距離、時折交わす言の葉
この様な時間を『幸せ』と言うのだろうか?
ふとそんならしからぬ事を思った泰衡に、望美が無邪気に笑って言う
ねぇ、泰衡さん
こうやって、ずっと二人で
年を取っても、ずっとずっと
一緒に、歩いて行きましょうね?
あんまりにも、『幸せ』そうに笑うので
ああ、それも悪くはないな、と
どこまでも素直じゃない物言いで答えるのだった
作品名:そんな『幸せ』もある 作家名:藤屋千代子