断章書簡。
Tからは、昨年の末に届いた手紙が最後。二通ほど後追いで投函したが、今の混乱の中届いているかどうか。検閲がある為、滅多な事が書けず、曖昧な言葉で濁すばかりになる。何通も出すのは口惜しいので、今日一筆書き送る他はもう此方からは出すまいと思っている。
奴からの消息の結びの文、『いずれ春永に』。春など、いつ来るというのだろう。
20 年 8月4日
先日、出撃命令を前に、漸(ようよ)う故郷に戻る。恐らく復員は叶わない。一日足らずの最後の帰郷だ。
あちらではどうも空が晴れている。爆撃に晒された里は焼け、親しい者の行方も分からないまま時が過ぎた。家は什器の跡方すら残っておらず、ひどい有様。母も見つからずじまいだった。
消毒液の匂いだけが酷い。生きていてくれればと願わずにはいられないが、親不幸にも、会えぬままのほうが却って良いとさえ思う。
唯一会えたKは、広島の親戚の元に身を寄せると言っていた。そうだ、同地にはTさん(後の為注記:Tとは別人)も疎開して居るのだったか。鉄道は動いているようだから、明日にでも向こうへ着くだろう。母もTも見つからぬ今、髪結いというゆかりのあるTさんの元に遣るのが一番良いだろうと、簪を預けた。会えると良いなと言うと、君もねと返される。飄々とした奴だ、どこででも、案外生きていけるのに違いない。
基地へ戻り、更に翌日、出撃の拠点とされたこの飛行場まで飛ぶ。来しな、駆けつけたらしいH、Y、Dの三人が、餞別にと羊羹を呉れた。S中尉からも、握り飯を幾つかと、長鉢巻を頂く。同期の連中と皆で有難がっている。
T のことだが、思った以上に経過が悪く、養生の為何処か遠くのサナトリウムに転院したと、後で聴いた。やがて、病で逝ったとも伝わってきた。何ともないなどと嘘つきめ、やっぱり容態が酷かったんじゃあないか。一度も見舞わぬまま死なせたことを殊更悲しいとは思わないが、すとんと心臓がなくなった様な、妙な心地がする。命を失う覚悟をしておいて、その癖あいつが死ぬとは考えた事も無かったのだと、今頃になって気付く。あの時に簪を、矢張り贈っておけばよかったか。結局、写真の一枚だけが私の手元に残ってしまった。後生大事にもっていく訳にもいかぬので、此の日記と共に後輩連中にでも託ける心算だ。
こちらでは、地元の方に大変良くしていただいている。敵とは、正義とはなんだという問いに、叫ぶ声は詮無く未だ答えは出ない。この期に及んで純粋な憂国の士とはなれぬのも、はっきりと在るのは薄っぺらな大義名分だけだというのも、其れももうどうしようもない事。大分と文字が歪んでしまったが、手が震えるのは、或いは武者震いということにしておこう。死を恐れていったなどと、後に迄思われては私の矜持にかかわる。
実戦に出るのは、私たちが恐らく終いと聞いた。先見の明のある先輩方の言われることが間違っているはずもない、この戦争はきっと直に終わるのだ、見届ける事は叶わなくとも。それでも先の同輩を思えば、最後まで操縦桿を握られるのは幸運と言って良い。
神仏など信じる身でも無いが、運が良ければ会えるだろう。
出撃は明日。
あちらには、戦争も平和もない事を祈る。
日記は、其処で終わって居た。ぼろぼろに草臥れた革の表紙を返すと、掠れた署名の墨蹟が目に入る。
田村三木ヱ門。祖父の名では無い。遊び紙と表紙の間に、封の切られた手紙が挿み込まれていた。封筒には、検閲印が押されている。『拝啓 親愛なる好敵手殿へ、』。日に焼け紙魚に喰われた文面には、何度も何度も指で筆跡をなぞったように、薄黒い痕が横へ流れて見えた。
ぱらりと頁をめくれば、一枚の写真が落ちる。
色の褪せた其れは、旧制中学の制服にこのいと色の着物をめかし込んだ、少年の肖像だった。
『在りし日のT 永遠的に彼を愛す』
日記の文字と同じ筆跡で、写真の裏には、小さくそう記されていた。