かえりみち
かえりみち
今日はいつもより早く帰れたな……。
ほの暗い空に沈みかけの夕暮れが照らす細い石畳の路地を歩きながら、ドイツは小さく溜息をついた。
朝に家を出た時には白かった息が、今は曇りもしない。連日続いた厳しい寒さも今日にはようやく合間を見せたらしい。
「……まぁそれでも、油断は禁物だがな」
今日はまだ温かい方とはいえ、ここのところ寒い日が続く。首に巻いたマフラーをぐいと口元まで引き上げて、吹き付けてくる北風に眉をひそめた。
耳を凍らせるような風の日が続いたが今日はまだ温かい方らしい。見上げた夕焼けの空は翳る様子もなく、乾いた風が木々を鳴らすものの、雪は降りそうにない。
日に日に厳しくなる気温を思いながら、家の暖房器具を思い浮かべる。このまま冷える日が続くのなら、毛布をもう一枚出した方がいいかもしれない。
……そうだな。特に、あの人は寝相が悪いから。
ドイツは、重ねた毛布を重たいとはじき返してしまう行儀の悪い小さな肩を思い浮かべて、小さく口元を緩めた。
まったく、手のかかる人だ。
小さく呟いた言葉は、自分でも驚く程に緩やかだった。
一度は住む家を分けてしまったあの大切な人と、やっと再び一緒に暮らせるようになって、もうどれぐらいだろう。
不意に浮んだ疑問を思い出そうと、コートのポケットに入れていた手を取り出し、皮の手袋をはめたまま指を折る。
そもそもあの人と出会ったのは? あの人の下で暮らしていたのは? そして、あの人と離れたのは?
消えそうになったあの人の手をとったのは。
思い出そうと夕暮れを見上げ、すぐに止めた。
意味の無い時間を数えて溜息をつくのはやめようと、とうの昔に決めたのだ。
あの人と再び暮らすことを決めてから。
「兄さん」
北風の吹く中、消え入りそうな小さな声でぽつりと呟く。
かけらのような言葉はすぐに風に溶けて消え、流れていった。
「兄さん」
もう一度、わずかにさっきよりも声色を強く。
「……兄さん」
もう一度。風がかき消していくのを感じながら、それに安堵するように。呟いた言葉は形にもならず、流れる北風にさらわれて消えていく。
あの日守れなかった、あの共に過ごした家の前で。
あなたと俺とを隔てた、あの大きな壁の前で。
俺は何度、あなたの名前を呟き続けただろう。
「……夕焼け時は苦手だ」
誰に言い訳するわけでもないのに言葉が零れた。
昔を思い返して溜息をつくのは止める。そう決めた。確かに、そう決めたのに。
こんな夕陽を見上げると思い出してしまう。あの遠い日のこと。
あなたと別れた日。あなたと再び出会えた日。あなたの手をとった日。
一度は消えかけたあなたが、再び笑ってくれた、あの日。
後悔の記憶だけじゃない。幸せだったことも、辛かったことも、なにもかもこんな夕焼けの時だった。
「……兄さん」
暗い夕暮れの帰り道、手を引いてくれた大きな手。
銀色の細い髪が夕焼けに溶けて、きらきらと光った。
「ヴェスト」
優しい声で俺の名を呼ぶ。笑う。
戦場において非道の悪魔と言われていたその人が、自分にだけは優しくしてくれていたことを俺は自慢に思っていた。
誰よりも強く、誰よりも誇らしく、なによりも毅然と果敢であったあの広い背中。
いつか自分もこの背中のように強く、たくましくなるのだ、と。
沈みゆく夕陽の中、小さな拳を固め強く胸を握り締めていた。
兄とは違う金色の自分の髪に触れて、確かにその違いを確かめた。
夕陽に光る銀。夕陽を称えてなびく金。
対のように風に揺れるのは、同じ高さで肩を並べた時になによりも美しく光るためなのだと。そして、その時にはあなたと同じ高さでこの夕陽を見ようと。
そう、あの日の夕陽に誓ったから。
今日はいつもより早く帰れたな……。
ほの暗い空に沈みかけの夕暮れが照らす細い石畳の路地を歩きながら、ドイツは小さく溜息をついた。
朝に家を出た時には白かった息が、今は曇りもしない。連日続いた厳しい寒さも今日にはようやく合間を見せたらしい。
「……まぁそれでも、油断は禁物だがな」
今日はまだ温かい方とはいえ、ここのところ寒い日が続く。首に巻いたマフラーをぐいと口元まで引き上げて、吹き付けてくる北風に眉をひそめた。
耳を凍らせるような風の日が続いたが今日はまだ温かい方らしい。見上げた夕焼けの空は翳る様子もなく、乾いた風が木々を鳴らすものの、雪は降りそうにない。
日に日に厳しくなる気温を思いながら、家の暖房器具を思い浮かべる。このまま冷える日が続くのなら、毛布をもう一枚出した方がいいかもしれない。
……そうだな。特に、あの人は寝相が悪いから。
ドイツは、重ねた毛布を重たいとはじき返してしまう行儀の悪い小さな肩を思い浮かべて、小さく口元を緩めた。
まったく、手のかかる人だ。
小さく呟いた言葉は、自分でも驚く程に緩やかだった。
一度は住む家を分けてしまったあの大切な人と、やっと再び一緒に暮らせるようになって、もうどれぐらいだろう。
不意に浮んだ疑問を思い出そうと、コートのポケットに入れていた手を取り出し、皮の手袋をはめたまま指を折る。
そもそもあの人と出会ったのは? あの人の下で暮らしていたのは? そして、あの人と離れたのは?
消えそうになったあの人の手をとったのは。
思い出そうと夕暮れを見上げ、すぐに止めた。
意味の無い時間を数えて溜息をつくのはやめようと、とうの昔に決めたのだ。
あの人と再び暮らすことを決めてから。
「兄さん」
北風の吹く中、消え入りそうな小さな声でぽつりと呟く。
かけらのような言葉はすぐに風に溶けて消え、流れていった。
「兄さん」
もう一度、わずかにさっきよりも声色を強く。
「……兄さん」
もう一度。風がかき消していくのを感じながら、それに安堵するように。呟いた言葉は形にもならず、流れる北風にさらわれて消えていく。
あの日守れなかった、あの共に過ごした家の前で。
あなたと俺とを隔てた、あの大きな壁の前で。
俺は何度、あなたの名前を呟き続けただろう。
「……夕焼け時は苦手だ」
誰に言い訳するわけでもないのに言葉が零れた。
昔を思い返して溜息をつくのは止める。そう決めた。確かに、そう決めたのに。
こんな夕陽を見上げると思い出してしまう。あの遠い日のこと。
あなたと別れた日。あなたと再び出会えた日。あなたの手をとった日。
一度は消えかけたあなたが、再び笑ってくれた、あの日。
後悔の記憶だけじゃない。幸せだったことも、辛かったことも、なにもかもこんな夕焼けの時だった。
「……兄さん」
暗い夕暮れの帰り道、手を引いてくれた大きな手。
銀色の細い髪が夕焼けに溶けて、きらきらと光った。
「ヴェスト」
優しい声で俺の名を呼ぶ。笑う。
戦場において非道の悪魔と言われていたその人が、自分にだけは優しくしてくれていたことを俺は自慢に思っていた。
誰よりも強く、誰よりも誇らしく、なによりも毅然と果敢であったあの広い背中。
いつか自分もこの背中のように強く、たくましくなるのだ、と。
沈みゆく夕陽の中、小さな拳を固め強く胸を握り締めていた。
兄とは違う金色の自分の髪に触れて、確かにその違いを確かめた。
夕陽に光る銀。夕陽を称えてなびく金。
対のように風に揺れるのは、同じ高さで肩を並べた時になによりも美しく光るためなのだと。そして、その時にはあなたと同じ高さでこの夕陽を見ようと。
そう、あの日の夕陽に誓ったから。