パーフェクトノイズ
いつも、ノイズの中心に彼が居た。
思えば昔から俺はそうだったのだ。これが一体なにによるものなのかは、考えても考えても結論がでなかったけれど、多分俺の耳がどこか悪いのだろう。
俺は、執着している人間の声が時々聞こえなくなる。
今まではその現象は主に、一番興味深い観察対象に対して起こっていた。
聞こえなくなるといっても、自分の気分の高揚によって心臓の刻む鼓動に、一瞬耳が支配される、その程度のことだ。聞き逃す単語があったとしても2・3個程度、そのくらいならば俺の溢れる人間への愛で、まあ要するに積み重ねた観察結果により推測が容易なので、特に不便とは思わなかった。
今までは、の話だ。
今は、とても不便に思う。ドクンドクンと耳の奥で鳴り響く心臓音が、そのノイズが、俺の世界を一瞬で支配してしまうその現象を。
今までの音声の断絶なんて、些細なものだった。今この、彼の巻き起こすノイズに比べたら、本当にごくごく些細なものだったのだ。
最近、ここ2ヶ月ほど、俺の耳は特におかしい。そして俺の耳がノイズで構築された世界を形成するとき、その中心には必ず彼が居た。
竜ヶ峰帝人。
りゅうがみねみかど。
今その単語を心の中で繰り返すだけで、俺の耳は外界の音をいともたやすく遮断してしまう。ドクンドクンと脈打つ俺の感情が、まるで体を楽器にでもしているみたいに鳴り響いて心臓を締め付ける。
世界に俺しか居ないみたいに体が鳴り響くとき、彼の声をほとんど拾うことができなくなる。俺自身がその声を聞きたいと、切実に願っているにも関わらずだ。特に、彼が笑うといけない。彼が笑うと、俺の中の機能のほとんどが一時停止をするのだ。
だからか、観察対象である彼を、観察しなければと思うのに、俺は彼に会うと彼から微妙に目を逸らしてしまっていた。彼の笑顔に直面するのは非常に危険だった。何か崩してはいけない防衛壁の一部が、たやすく決壊する。あとはもうノイズの海に放り出されて、どうしようもなく鳴り響く心臓音に耳が埋もれていくだけだ。そうなるともう、観察だなんていっている場合じゃない。ノイズから解放されたくて、必死に冷静を呼び戻そうと努力して、早くこの場から逃げたいとそればかり。そのくせ、帝人君に会いたくて会いたくてたまらない。
この矛盾は俺にとって致命的だった。
誰より接触したい、会いたい、観察したい相手を目の前にして、俺はその表情からことごとく逃げなくてはならず、その声をほとんど拾うこともできない。圧倒的に情報が不足する。にもかかわらず、知りたいことばかりが増えていく。聞き漏らした言葉をどうにかしてもう一度拾いたくて、地面を睨みつけてみたりして、それでも症状は悪化するばかりだった。
この数ヶ月、帝人君との会話は常に誤魔化しと詭弁と予測の勝負だったと言っても過言ではない。だから、こんなにも長い間、積極的に関わってきたというのに、そのノイズのせいで俺は、帝人君の情報をほとんど蓄積できないままでいた。
それが、悪かったのだ。
その日もやっぱりいつも通りに、彼はノイズの中に居た。
帝人君、と呼びかけた声さえ、自分の耳に届かないほどの心音が耳を埋め尽くしている。当然、外界の音など何も聞こえない。ただ彼が振り返ったから、ちゃんと俺の言葉はとどいたのだとわかっただけだ。
走り寄る彼からすこし、視線を逸らす。やあ元気、とかなんとか、当たり障りのないことを言ば、ため息をつかれた。どうせ、昨日の夜もチャットで会ったでしょとか、そういうことだ。
ぱくぱくと帝人君の口が動くのを見ても、声は俺に届いてこない。
「いざ・・・・、なんだか・・・・・じゃ、ないで・・・・」
これは心配している顔、と判断して、どうやら最近の言動の不自然さに彼が気づいたなと息を吐く。憮然とした顔を作ってみせ、心外だと嘆いてみせる。それからにっこり笑って、心配してくれて有難うと、なんともうそ臭いことを言ってみた。帝人君はやっぱり困ったような顔をして、じっと俺を見上げる。
怖いな、と思う。
ドクンドクン。心臓の音が一際大きく警戒を促す。新羅辺りならこの現象に、過剰な自己防衛本能とか、良くわからない理由をつけるのだろう。防衛本能。自分で考えておいて、あながち間違いじゃないなとも、思う。
俺は何時だって怖いのだ。この子に今まで積み上げてきたものを全て掻っ攫われる気がして。
「・・・さん」
呼ばれてはっと顔を上げると、正面から、帝人君の丸い瞳とぶつかった。
ドクン。
ノイズが一層強く頭のなかに響く。だめだ、そらせ、いますぐ、その目を。かみ締めるように自分に言い聞かせるのに、真剣な帝人君の目に吸い込まれそうになる。
なに。
抑揚のない声でそう尋ねたはずなのに、どんな風に彼に聞こえているのかがわからなくて、ノイズは益々打ち鳴らすように響く。俺はなにか余計なことを彼に言っていないだろうか、聞こえないのは酷く怖い、そんな心配ばかりが、強く強く。
やがてぴたりと俺を見据えていた帝人君の湖面のような瞳が、ゆっくりと瞬きをして、唇が動いた。
「明日・・・ありま・・・?」
聞こえた言葉は少なかったけれど、絶賛修行中の読唇術で何とか意味をとろうと、俺は必死だ。珍しくまっすぐ顔を合わせていたおかげで、多分、明日時間があるか、という問いだろうと見当を付けられる。
あるけど、どうしたの。なんでもないように言うと、帝人君はそのまま真剣な表情を崩さず、
「・・・ち公・・・・・・せんか?はな・・・ことが・・・・・・」
と続ける。
俺は迷うふりをして考えた。明日時間があるかと問うたからには、会えませんか、と続くのが妥当だ。とすれば、断片の言葉から察するに西口公園。話したいことがある、あたりだろうか。
ドクンドクン。ノイズは消えない。ほとんど音に圧迫されて息もままならないのに、俺は無意識にいいよ、と頷いていた。
良くないだろ。良く考えろ。
会ったとして彼の言っていることをどれほど汲み取れるんだ、と思う。思うのに、それにもまして浮かれている。だって、はじめてだ。彼のほうから会いたいなんていってきたのは。
俺の返答に、帝人君はほっとしたように息をついて、
「・・・あ、・・・・時で」
とまた言った。場所が決まれば次は時間だ。「時」の直前の口の形は「う」の形。そうすると、九時か十時か、六時しかない。明日暇かと聞くくらいだから、おそらく午前とあたりをつける。よしんば午後の六時だったとしても、それはそれで構わない。
わかった、と笑って見せれば、帝人君は安堵の表情をした。では、と頭を下げて走り去る後姿が遠ざかるほど、耳に音が戻ってくる。
やがて心音が完全に消え去ると、俺は胸に手を当てて息を吐いた。はーっと、音はクリアに聞こえてきて、忌々しさに舌打ちをする。
いっそ耳を引きちぎってしまおうか。そうしたら筆談を要求できる。けれどもそれでは、もう二度と彼の声を聞けないから、それはいやだ。
汗で湿った手のひらを、ぶんぶんと振る。彼との会話はこんな風に、誤魔化しと詭弁と予測の勝負だから一瞬たりとも気が抜けない。それなのに俺は、帝人君の情報をほとんど蓄積できないのだから不公平だ。