パーフェクトノイズ
一体どうして俺の心臓は、彼に対してだけこれほど顕著に脈打つのだろう。本当は答えがわかりかけているその問いに、不明のレッテルを貼り付けて放り投げる。
それを認めてしまったら後戻りできない。
俺はそれを、知っている。
翌日、西口公園のベンチに座って帝人君を待ちながら、俺は必死で今日をどう乗り切ろうかと考えていた。
やっぱり用事が、と言って逃げれば許されるだろうか。時刻はあと十五分ほどで九時だ。逃げるなら今だと思うのに、それでも会いたい気持ちが強く出る。その気になれば毎日だって会えるのに。
息を吐いて、心臓を服の上からおさえてみる。こいつをもいでやれたらどれほど楽になるだろう、と、俺らしくないことを思う。死ぬのは怖いのに、それ以上に、すべての音が心音に侵食され、自分の声さえ聞こえない状態のほうが怖く感じるなんて、もう俺はだめかもしれない。帝人君が、俺の中のどこかのスイッチを入れてしまう。
俺はそれが、俺をおかしくする帝人君の存在が、心底怖い。
なのに、会いたいなんて。
もう一度長く息を吐くと、ちょうどそのタイミングで携帯がなった。
誰だよこんな時に、と思って二つ折りの携帯を開くと、そこには「帝人君」の文字が表示されている。
一気に、ドクンと心臓が高鳴った。
通話ボタンに手をかけながら、体が硬直する。すでにおなじみになったノイズが、体を支配しつつあった。どうしよう、どうすればいいんだ。電話なんて最悪だ。どうして、メールじゃないんだ。よりによって俺に、電話だなんて。
息を飲んで、震える指で通話ボタンを押す。ドクンドクン、煩いくらいの心音が、ぐわんと脳内に鳴り響く。
「・・・みかど、くん・・・?」
恐る恐る、耳に当てた電話からは、やっぱり自分の心臓の音しかしなくて、どうすればいいのかわからない。通話ができない。手が震える。どうすれば、どうすれば。
すべての音が自分の鼓動に取って代わる。木々のざわめきも人々の声さえも。
俺はたえきれなくなって通話を切る。帝人君は、いったいどうして電話なんかしてきたんだ。どうしてメールじゃないんだ。なんで、こんなことを。
苛立紛れにそんなことを思っていると、もう一度携帯が震える。
びくりとしてディスプレイを見れば、今度はメールのようだった。ほっとして受信したメールを開けば、そこには予想外のことが書いてあった。
『ごめんなさい、試すようなことをしました』
俺はこの言葉に、ひどく衝撃を受けた。試した、だなんて。じゃあ俺の誤魔化しと詭弁と予測の勝負は、すでに俺の負けだったというのだろうか。震える指で返信を押す。
『どういうこと』
それだけを打ち込んで送信すると、返信はすぐにかえった。
『臨也さん、耳が聞こえないのではないでしょうか』
俺は息を飲んだ。
ドクン、と一度収まりかけた心音が、再び体中に響き渡る。
『なんでそう思うの』
返信を押してすぐ、横から腕をつかまれて、俺ははっとして立ち上がった。コートからナイフを取り出しかけたところで、その相手が帝人君だということに気づく。刃を出す前に、その手を押しとどめて、息を吐いた。
ドクン、ドクン。消えろ、消えてくれこの、雑音は。唇をかみしめたなら、帝人君は何も言わないまま俺の腕を引いた。
どこにいくの。
呼びかけたつもりだったけれど、相変わらず自分の耳にその声は届かず、帝人君は振り返らない。つかまれたところが熱いような気がして直視できない。何が、起きているのか、理解出来ない。
街中の雑踏の音も、足音さえも耳に入ってこない。ただすべてを遮断するような心臓音が、響いて響いてぐらぐらする。この音が俺を破壊する。息が苦しい。手を離して欲しい。・・・離して欲しく、ない。意識が混濁する。矛盾が大腕を振って体中を駆け巡る。悲鳴を上げたくなって唇を強く噛んだ。おかしい、今の俺は、逃げ出したいと強く思う反面、このまま永遠にこうしていたいとさえも、思う。
ノイズの波の中で翻弄される。泣きたくなるから困る。
こんな情けない姿は見せたくないのに、こんな弱い俺なんか、帝人君には特に見せたくないのに。
ああ駄目だ、御託も言い訳も全部全部、心臓が食べてしまう。俺は帝人君に嘘をつけない。だったら沈黙するしかない、自分が何を言っているのかわからないのは怖い。この子に嫌われるのはもっと怖い。この子に壊されるのはもっともっと。
世界が遮断されたまま、俺が連れてこられたのは帝人君の家だった。このおんぼろアパートは、昼間は帝人君以外の住人がいないことを、すでに俺は調べていた。ならば叫んでもいいだろうか。怖いと。
なけなしのプライドなどはぎ捨ててしまいそうだ。
黙々と玄関の扉をあけて、室内に俺を押し込んだ帝人君が、崩れるように玄関に座り込んだ俺の頭をゆるく撫でた。
やさしくしないで。
口にしたはずの言葉は、やっぱり心音にまぎれて消える。ノイズが俺を埋め尽くす。自分がここから居なくなりそうで怖い。それなのに俺は全身で、俺に触れる帝人君の存在をひたすらに求めている。
帝人くんは口を開かないまま、くいくいと俺の服の裾をひっぱった。玄関ではなく、上がれと言っているのだろう。崩れそうになりながらその言葉に従えば、ローテーブルの上にルーズリーフを取り出して、帝人くんはさらさらとそれにペンを走らせた。
『ここ2ヶ月くらい、臨也さんとの会話がかみ合わなくなりました』
絶望的な言葉だった。
俺の誤魔化しと詭弁と予測は、うまく帝人君の声を聞けなくなった直後あたりから、すでに帝人君に気づかれていたというのか。なんて滑稽な。
何も言わない俺に、帝人くんはさらに文字を書き出す。
『どうしてだろうと思っていたら、なんだか臨也さん、僕に目を合わせないのに、僕の唇には視線を向けていたから。あとはカンです』
もういい加減心臓は、帝人君の存在に慣れてくれないだろうか。ペンを走らせる音さえ聞こえないノイズの中で、俺は息を吸う。そして恐る恐る手を伸ばして、帝人君のペンを奪った。
『君がいるから、聞こえない』
全身全霊が、脈をうつから。
体中に轟くその鼓動を、俺は持て余して持て余して困っている。
『君の声だけ、聞こえない』
言葉を綴るほどにどうにも嘘臭いけれど、けれどもそれが事実なんだから仕方がない。どうにかしてよ帝人君。君のせいなんだ、これは。
『心臓の音がうるさくて、聞こえないよ帝人君』
文字が震える。多分心も震えている。どうしたらいいのかわからない。俺はきみの声が聞きたい。
泣きたくなる。今どうしようもなく、声を上げて泣きたい。そうすれば許される気がした、この感情に名前をつけなくても逃げられる気がした。けれども俺の手を、ボールペンごと上から抑えた帝人君の体温が、逃がしてくれない。顔をあげたら泣き笑いみたいな顔になってしまった。帝人くんは大きな目に困惑を浮かべて、何か口を開く。
これは聞いてはいけない言葉だ、と瞬時に判断して、俺は眼を閉じて耳をふさいだ。振り払った帝人君の手が、爪で軽く俺の手をひっかいて、ずくりと手が疼く。
ああ、ああ。叫んでしまいたい。