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初夏、真夜中の小さなプレリュード

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南池袋、住宅街にほど近い場所に一軒のラーメン店があった。その店主はその日最後の来客に、その目を白黒させざるを得なかった。
 まず、始めにのれんをくぐったのは若い女だった。よくよく目をこらしてみれば、そのきれいな金髪は生まれ持ったものであるように思え、端正な顔立ちをしている――外人の女ではないか。
 こんな辺鄙な場所に、しかもこんな夜遅い時間になぜこんな客が来るのだろう。「いらっしゃい」と声をかけた裏ではそんなことを思わずにはいられない、不思議な来客の存在だった。
 そんな風に、店主がその女に驚いている一方で、ついでのれんをくぐる人影がみえた。なんだ連れがいたのかと思いながら、ちらとやった視線、店主は瞠目せずにはいられなかった。
 女の次に入ってきたのは男だった。それも、同じく金髪で、青のサングラスをかけた、バーテン服の――男。店主はその姿が視界に入るや否や、背に嫌な汗をかかずにはいられない。その男は、この街で生活を営むものにとっては絶対に忘れてはならない存在であった。そう、その男の名こそ、平和島静雄。池袋に住んでいるのならば、けして忘れてはいけない生ける伝説のような男が、今目の前にいた。
 遠目でならば、街の至る所で姿を見かけたことがあるが…。こうして、間近でみるのは初めてだった。もしも何かが起こって、彼の逆鱗に触れたら…そんな想像が実に鮮明に頭の中によぎってしまう。そのせいか、店主は喉の奥底からなんとか絞り出した声で小さく「いらっしゃい」と呟くのがやっとであった。
 彼らは促さずとも、カウンターに腰掛けたので、店主は向こうが口を開くまで、こちらからは何一つ言うまいと堅く心に決めて一心不乱に手元を動かすことに集中した。
「ヴァローナ、おまえは何食うんだ?」
「何でも構いません。ラーメンというもの、食べたことはあまりないですが、味の種類、問題ありません」
「じゃあ俺と一緒でいいか?」
「肯定します」
「そうか、じゃあ味噌チャーシュー麺、二つ、たのむわ」
 店主はその声を耳に入れると、再び喉の奥底から声を絞り出し、「あいよ」と返答した。なるべく早く、冷静に、そして絶対にミスをしてはいけないというのを胸の内で唱えながら作業に集中することにした。
 静雄は注文を終えた後、近くに灰皿があることをみつけたので、それを手元に引き寄せた。そして胸ポケットからたばこをとライターを取り出し、それに火をつける。吸い込み、ゆっくりと吐きだした煙は店内に満ちる鍋の湯気の中へ混ざる。
 一方ヴァローナは、内装が珍しいのかあたりをきょろきょろと見渡していた。そして目の前においてある調味料の瓶をしげしげと見つめた後、隣の男のほうをみて口を開いた。
「独特の空間です、本当にここでよかったのか、今更ながらに疑問です」
 端正な顔立ちをしたヴァローナという外人の娘は独特の調子で、隣の男にそう問うた。
 普通であればその風変わりな口調にたいして疑問を持つところだったが、静雄はその表現になれているのか、とくにそれに対して何を言うわけでもなくその問いに返答した。
「そうか?俺は別に気にしてねぇけど…こう言うときはラーメンだろ」
「静雄先輩がそういうなら、構いませんが…」
 彼女はそう口ごもりながらもう一度店内を見渡した。値踏みするような視線は店の端々に向けられる。自分が今住んでいる寿司屋と同じくらい繁盛しているわけでもない店内――現に客は今自分たち以外誰もいない。本当に、ここで食べるご飯はおいしいのか…それを確証させてくれるようなものが店内から感じられなかった。
「これでお礼になっているか、甚だ疑問です」
 ヴァローナは心底分からないと言う顔をして、短くため息をついた。
「まぁ食えば分かるだろ」
 静雄はそんな隣の女の様子に何を思うわけでもなく、自然にそう返すと、たばこを灰皿に押しつけてその火を消した。

   ♂♀

 そもそもこの二人で晩御飯を食べにいくことになったのは、数時間前に遡ることになる。
 今日の回収の仕事を無事に終わらせ(もちろん、破損した公共物はすべて元通りに見えるように工作をしてきた。最近この作業がお手のものになってきたような気がしてならない)上司であるトムが社長に報告をし終わった後の話だ。トムは報告が終わったあと、頭をかきながら、廊下に待たせておいた二人をみやるといつも通りの笑みを浮かべてこう言った。
「ほれ、おまえ等今月の給料だ」
 差し出されたのは2つの茶封筒。両方とも少しだけ厚みがあり、何かが入っているというのは何となくだがわかった。そうやって差し出されたものを静雄は「ありがとうございます」といいながら両手で受け取っていたので、ヴァローナもそれに習って茶封筒を受け取ることにした。
「そういや、お嬢ちゃんはうちで働きはじめて、これが初めての給料だな」
「肯定します。このようなお金の渡され方は初めてです。大抵は振り込み、それを介しての入手でした」
 なまじ『何でも屋』のようなことをやっていたヴァローナにとって、お金は雇用人から直接受け取るものという印象はなかった。あくまでも報酬金として銀行の口座などに支払われていたので、自分で稼いだという実感はあまりなかった。それに発生する報酬も、任務をクリアしたことに対して付いてくるおまけのような印象が強く、そこまで執着したこともない。今おもえば、そういうのはすべてスローンに任せていた。
(スローン…)
 かつてのパートナーのことが不意に頭の中によぎり、胸が痛んだ。今どうなっているかは知る由もなく、仕事にいく途中で時々露西亜寿司に蟹を届けに来る赤林にすれ違うたび、そのことを問いつめようとしてもひらりとかわされてばかりだった。今はただ、生きていることを願うばかりだった。
「初任給ってもんはいいよなぁ、懐かしいべ。せっかくだから、誰か世話になってる奴とかにそれでいいもん食わせてやれよ」
 トムは茶封筒を握りしめて黙っていたヴァローナを給料がうれしいのだと勘違いしたのか、そういうと彼女の頭を軽く撫ぜた。そして「俺は事務処理が残ってるからおまえ等先かえっていいぞ」というと、彼はひらひらと手を振って事務所の奥の方へ姿を消してしまった。静雄がそうやって消えていくトムに対し、「おつかれっす」と声をかけたので、ヴァローナもそれに習って「お疲れさまです」と続けた。
 結局、静雄とヴァローナは二人だけ廊下にぽつりと残されているような状態になってしまった。二人はどことなく顔を見合わせると「ま、帰るか」という男の声にあわせて、帰路につくことにした。

 女の方の頭の中には、先ほど上司にいわれた言葉が強く残っていた。
 お世話になっている人に、おいしいものを食べさせてあげる…――そういえば、昔読んだ書物でもそんな記述がなされていたような気がする。
 自分が働いて初めて得た所得で、家族などにご飯をご馳走をふるまう…それで喜ぶ家族。そんな光景はたくさんの物語をはじめとして、何度もみたような気がする。働いて初めての所得、という点では彼女の手にしているこのお金は違っていたが、こうして直接給料として支払われたお金を受け取るのは確かに初めてだった。