初夏、真夜中の小さなプレリュード
――家族。今度はその言葉を頭の中に浮かべる。実父とは、とうに縁を切った身だ。となると、デニスとサーミャがそれに当たるのだろうか…いや、なんだか違う気がする。そもそも、お世話に、という言葉を認めたくはない。では、誰…?そうやって様々な方向に思考を巡らせたときに、ヴァローナの脳裏にようやく何人かの人物が思い当たった。そうだ、私のお世話になっている人とは他でもないではないか。
「静雄、先輩」
ヴァローナはすでに歩き始めている斜め前の男に声をかけた。
「ん、どうかしたか」
やや振り帰った男の表情は、その青のサングラスによってよく分からなかった。おそらくイライラしているということはないだろうと思いながら、手を伸ばしその袖をつかむ。
「晩ご飯、私にご馳走させてくれることを要求します。了承していただけますか?」
宿敵にこのようなことを言うのは彼女にとって恥ずべきことであった。
だが、彼女にとって普段世話になっている人というのは、他ならぬこの目の前にいる平和島静雄という男と田中トムという上司、この二人だった。敵と仲良くしようなどというのは馬鹿げている…だが、礼節を欠く方がもっと愚かだ。
彼女はそうやって自身の感情に対し、理由をつけ頭の中では折り合いをつけようと必死だった。だが、当然のようにそれは表面までには及ばない。――彼女は分かっていた。おそらく今、自分の頬は林檎のように赤くなっているに違いないと。
だからできるだけ、それを隠すように、そんな顔を見られてしまわないように俯きながらその言葉を外へ出した。そうやって下を向いているうちに逃げられないようにしっかりと袖口もつかんで離さないようにしながら。
一方、静雄の方は突然の申し出に、訳が分からなく疑問符を浮かべるしかない。
「なんでお前が奢る必要があんだ?」
彼は、純粋な疑問として、俯いている女に問うた。彼女は依然下を向いたまま小さな声で返す。
「先程、トム上司言ってました。お世話になってる人に、おいしいものをごちそうしろと。私にとってそれに該当する人物は、静雄先輩とトム上司だと、推測します。しかし上司は仕事で今おりませんので、先輩だけでもそれを実行することを望みます」
そういいながらヴァローナは袖をつかむ力を強める。早く、答えがほしかった。自分のしていることが至極恥ずかしいことだと認識している彼女にとって、彼の答えをもらうことは一刻も早く実行されてほしいことだった。
「早急な肯定を要求します」
やや顔をあげて、とどめの一言とばかりにその言葉を口にする。そうやって頑なに袖をはなさない彼女に対して、静雄はもはや頭をかくことしかできなかった。
(別に世話になるってほど、大したことしてねぇけどなぁ。トムさんに奢るっつったらわかるけどよ、俺とかちがわねぇか・・・?)
内心そんなことを思っていたのだが、あまりことを考えることが得意ではない性分もあって、面倒だと思ったのか彼はまぁいいか、と思うことでその思考を遮断した。
しかたなく、ため息をつく心地で彼は彼女の言い分を受けると「お前がそこまでいうならよ」と小さく口にして、そのまま日もとっぷりと暮れた繁華街に繰り出すことにした。
ちなみにこれらの光景は、彼らの職場のすぐそば――つまり、二人が給料を手渡された廊下で行われたやりとりだ。傍目からみていた同僚達は、ヴァローナはやはり静雄のことが…とおもったのはいうまでもない。
♂♀
結局そうやって半ば強引に押し切るようなヴァローナをつれて静雄が選んだ店というのは、繁華街のはずれ、住宅街にほど近い場所にある一見の小さなラーメン屋だった。
ヴァローナは何をご馳走するにしても悪い気がしなかったが、その店内のみずぼらしさや客の少なさに本当にここでいいのか未だに疑問だった。食べればわかる、そういった静雄はぼんやりと遠くを眺めているようで、サングラスの向こうにある瞳の色は伺えず、何を考えているかはヴァローナには判断がつかない。
双方とも黙ったままでいると、カウンターの向こう側の店主が、「あいよ、味噌チャーシュー麺おまち」といってドンブリを差し出してきた。
ヴァローナが不思議そうにそれを眺めていると、静雄はドンブリを下ろして彼女と自分の前に一個ずつおいた。
湯気が立つドンブリからは味噌の香ばしい匂いが漂ってくる。その匂いをかいだ瞬間、自分達が今まで働いていてそういえばおなかが空いていたのだということを不意に思い出された。
静雄は近くにあった箸入れから箸を一膳取り出すと、彼女の方に差し出した。そして、それを差し出しながら、ふと今更思い出したようにあることを呟いた。
「あーそういや、お前、箸つかえたか?」
ヴァローナは箸を受け取りながら淡々とした表情と言葉で返す。
「問題ありません。日本では日本らしい生活をすると決めていました。箸の使用は可能です」
「そうか、ならよかったわ」
そういうと、静雄は口元をゆるめて、ラーメンに向きあった。
ラーメンの上にはチャーシューというお肉が何枚も乗っており、そのとなりにはいくつかの野菜が乗っていた。色とりどりというのか何というのか、実に不思議なカラーリングだとヴァローナは思う。
ちらりと隣をうかがうと静雄は手を合わせて、いただきますと呟くとそれを口にしていた。麺をいくつかつかみ、口に運ぶ。時折、隣のスプーンのようなもの(確かれんげというはずだ)をつかってスープも飲む。
静雄の食べ方はいつか書物で読んだような食べ方と確かに同じだった。なるほどそうやって食べるのかと思いながらヴァローナも同じく麺をつかみ口に運んだ。そして同じく時折、スープも口に運んでみた。
口の中に広がるのは、先程鼻をかすめたのと同じ味。それは冷たくなった体を温めるような、安心する味だと思った。
「うまいか?」
「はい、おいしい、です」
「そうか」
「期待以上です。こんなにおいしいとは想定外、疑ったことを謝罪します」
ヴァローナは静雄の方をみやると、やや眉を下げながらそう答えた。ヴァローナは普段からそんなに感情を表に出す方ではなかったので、彼はそんな彼女の仕草に意外さを感じた。静雄はそんな彼女を見やると、自身の箸をいったん止め、それをドンブリの上に置くと、腕を組みながら上を見上げた。
「俺はよ、ヴァローナ。別にお前に世話になってるっていわれるほど、何かをしてやってるわけじゃねえ。先輩ってもよ、いろいろ壊しちまうし…。むしろお前以上にトムさんには迷惑かけてばっかだ。それに、お前だって、俺ほどじゃねぇが、いろいろ壊して給料そんなもらってるわけじゃねえだろ」
「それは、不甲斐ないですが、肯定せざるを得ません」
ヴァローナは頭の中に今までの仕事のことを思い浮かべた。確かに回収はすべてがうまくいくとは限らず、自分の力加減がうまくいかずに多くのものを壊したことは認めなければならない事実だった。
「だからよ、俺は別に高いもんをお前に奢ってほしいとは思ってないわけだ。でも、お前がこんな俺でも先輩として慕ってくれてるってことだけで、あーなんだ、結構うれしいわけだ」
作品名:初夏、真夜中の小さなプレリュード 作家名:いとり