それはまさに悪夢
「・・・ちゃん、きりちゃん!」
自分を呼ぶ声に気がついた。欲しかった、ずっと聞きたかった声だ。
ぱっと目を開くと、真近に淡萌黄の瞳があった。まるで火が燃え移るように広がっていった赤は、もうない。
「・・・・・・らんたろ、俺・・・」
まだ息も整わないまま話そうとして、きり丸はケホッと咳き込んだ。
「無理して喋っちゃだめ!」
案の定乱太郎にぴしゃりと叱られた。ぐ、ときり丸が黙ると、彼は呆れたのか安堵したのか、ふぅと一つ息を吐いた。それから枕元に置いたままだった眼鏡を取り、然るべき位置にかける。
よく見ると彼はまだ寝間着だった。ああ昨夜は忍務に行けなくて久々に2人で寝たんだっけ、とようやく目覚めた頭の中で思う。
「きりちゃん・・・最近よくうなされてるよ」
乱太郎が声を潜めるのが、きり丸にはひどく奇妙に思えた。そんなに気を遣わなくたって、もうこの部屋にあいつはいないのに。
一体どこから出したのか、夜明け前の井戸水に浸された冷たい手拭いを額に宛てられる。ひんやりとして気持ちいい。
「・・・しんベヱがいなくなってからだね」
ぎくりとして咄嗟に身を起こす。額に載せられた手拭いがぼとりと落ち、乱太郎は苦笑いしながらそれを拾った。
「きりちゃんがうなされ出したのって、つい5日前・・・しんベヱが学園を出てからだよね」
「・・・はは、その通りだな」
自分でもそれが滑稽に思えて、きり丸は笑った。乱太郎はすっと目を伏せ苦笑するばかりだ。
3年間苦楽を共にしてきた親友は、四年生への進級という学園生活の節目を迎えると同時に自主退学した。
三年生の中ごろから授業について行けなくなり、きり丸を始めとするは組の面々の精神的癒しという役割だけが残されていた。そしてついに家業を継ぐ備えを始めねばならなくなった彼には、実際のところもうこの学園にいる意味が残っていなかったのだ。
きり丸は仕方のないある意味当然のことと割り切るつもりだったのだが、自分が思っているより余程大きな安心感を、あの穏やかな親友に与えられてきたようだった。
「何か悪い夢でも見るの?」
「まぁな」
深刻そうな顔つきの乱太郎に、きり丸は敢えて苦く笑った。悪い夢、か。
「・・・どんな?」
「あー、父ちゃん母ちゃんと死に別れた時の再現っつーか・・・。ここ数日ほぼ同じ内容」
言いながらちらりと外のほうを見やる。ちょうど夜明けの頃だ。
「きりちゃんは・・・今でも時々思い出すの、ご両親のこと」
「何だよ、そんな顔すんなって」
「だってそんな・・・辛い記憶の夢」
乱太郎は泣き出すかというほど顔を歪め、手の中の冷たい手拭いをぎゅっと握り締める。まるで自分自身が体験してきたかのように、苦しげに。
「いや・・・それはもう慣れてっからいいんだ。昔はもっとよく見てたしな」
「慣れてるって・・・」
「それより」
どこか咎めるような声色で言いかけられたのを思わず遮る。
「それよりずっと辛いのは・・・」
乱太郎の顔を見ていると、気にしないようにしているはずの夢の終わりがまたぼうっと浮かんでくるような気がして目を逸らす。
「乱太郎がいなかったことだ。どんな真夜中でも、忍務から戻ったら絶対お前が医務室でまってるのに。そのはずなのに」
「きりちゃん・・・」
「父ちゃん母ちゃんはもうあの世に逝っちまったけど、乱太郎は生きてる。その乱太郎に見捨てられたらって、俺・・・俺は思ったより・・・」
強くないのかも知れない、この愛しい―――一生かけてでも護るべき少年に、甘えているのかも知れない。自分自身が思うより、ずっと。
「・・・ねえきりちゃん、聞いて」
明日の実技は石火矢だってとか、まるでそんなことを言うように何気なく、乱太郎は囁いた。
「私は逃げも隠れもしないよ。たとえ夢の中だろうと、絶対あの部屋できりちゃんの帰りをまってるから」
いくらか明るくなってきた外の光が照らしたその顔は、とても穏やかに微笑していた。
「―――乱太郎」
「だから、ね」
指切りしよう。乱太郎がそう言って、そっと繊細そうな白い小指できり丸の小指を絡め取った。ふたりの決して幼くはない小指が、ぎゅっと絡み合わされる。
ふふっ、と乱太郎が笑った。
「約束だね」
「約束だな」
ここ数日間でおそらく初めて、きり丸も笑った。安心したとか、そういう次元の話ではない。
救われたのだ、彼の言葉で。まるで幼いあの頃、見知らぬ僧に命を拾われた時のように。
「あーなんか今日は、いい夢見れそう」
先ほどまで寝ていた布団に仰向けに倒れて、そう言った。