0701
恐怖を通り越していたので叫び声すら出なかった。ぎゅうっと硬く目を瞑って落下の痛撃に備えていると、すぐにどすん、という重い衝撃が背中に起きた。でも、思ったよりは全然痛くは無い。
「あ……」
恐る恐る目を開けて見ると、予想とは違ってマシューの身体はすっぽりとアーサーの腕の中に収まっていた。約束通り、兄はちゃんと自分を受け止めてくれたのだ。
確認した途端、じわり、と安堵の涙が浮かんできた。
「あ……あ、……こ、こわか……っ」
ふえぇぇ、と声を張り上げ、温かい胸に縋りつく。樹の上で泣きじゃくって使い果たしたと思っていた涙だけれど、まだまだ体内には大量の水分が残っているようだった。
「やればできんじゃねーか」
アーサーはゆっくりと地面に下ろしてくれて、思わぬ優しい仕草で頭を撫でてくれた。
「偉かったな、マシュー」
ニカッと子供みたいに笑って、マシューの目の前に拳を突き出して来る。
「アーサーさん……」
それに応えるように、マシューも小さな拳をアーサーのそれにこつん、とぶつけた。
ずっと外にいたマシューとは違い、アーサーの掌はとても温かかった。その僅かなぬくもりに触れただけで、じわり、と緩みっぱなしの涙腺が再崩する。
「ありがとう、ございました」
囁くように礼を告げて、マシューはペコリ、と頭を下げた。
彼にとってはほんの些細なコミュニケーションだったのかも知れない。しかしマシューにとっては、初めてアーサーに「自分」という存在を褒めてもらえたような気がして、何だかこそばゆいような照れ臭いような、複雑な喜びが小さな胸の中で暴れまわっていた。
「マシュー!」
「わっ」
賑やかな呼び声と共に、突然背中にタックルを食らい、マシューは思わず前につんのめり掛けた。後ろから回された腕に首まわりをぎゅうぎゅうと締められて、息苦しさに昇天しかけてしまう。
「マシュー、梯子こわしちゃってごめんよっ。無事に降りてこられて良かったぞ!」
「く、くるしいよアル、しんじゃう……っ」
ギブ、ギブ、と腕を叩き、解放を促したが、しかしアルフレッドはぴったりくっついたまま、決して離れようとしなかった。ごめんね、ごめんね、と甘えるように肩口に額を擦り付けて、子猫みたいにぐりぐりと寄り添ってくる。
その様子を見ていたら、何だか無償に可笑しくなってしまった。
「もういいよ、アル。僕は怒ってないから」
ぎちぎちに絡まっていた腕を緩めて何とか呼吸を取り戻しつつ、マシューは苦笑混じりに呟いた。心の中は言葉通りすっかり怒りなんて何処かに吹き飛んでいた。
「ほんとかい?」
「うん」
肩越しに振り向いて深く頷きながら笑顔を見せてやると、アルフレッドも釣られたように首を傾げて、嬉しそうににこりと微笑んだ。自分と同じ顔をしている筈なのに、アルフレッドのお日様みたいに明るい笑顔はちっとも自分と似ていない。だからこそ自分は彼の笑った顔が好きなのだと思った。
「お前なぁ……あんな目にあっておいて、そんなにすぐ許しちまうのかよ」
アーサーからは呆れ果てたように肩を竦められてしまったけれど、仕方ないよなと思う。
うん。仕方ない。
弟は我が儘で自己中で自分の意見なんかこれっぽっちも聞いてくれない傍迷惑なやつだけど。
幼い自分たちの面倒を見てくれている碧い瞳をした青年は、いつも自分をアルフレッドと見間違える、とても失礼な人だったけれど。
そこまで考えて、マシューはくすり、と含み笑いを漏らす。己のお人よしさ加減も大概だなと思った。
でも、しょうがないんです。
なんだかんだいっても、僕は。
「……二人のことが、好きだから」
そう言って、にっこり笑ったマシューの頭に、再びアーサーの呆れたような苦笑と、優しい温かさの掌が降りてきた。