クラウス オールマイティ
クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐の誕生日が今年も訪れようとしていた。
その日はオフィスでいつもどおり過ごす予定の少佐は、ボンから離れるような任務が降りることを切望していた。
前日、少佐がビル内の階段を昇りきったところで顔を合わせた部長秘書に、朝の挨拶と共にさりげなく部長が会議を予定してはいないかと聞いてみた。
だが、彼女は「今のところは存じ上げておりませんわ」とやや言葉を濁して微笑んだ。その意味はおそらく慈愛と…憐憫だ。
5月15日。それはいつのころからかスケジュールには明記されることはない例年の行事になっていたからだ。
おそらく彼女は全てを予見していた。明日、今年も現れるだろう招かれざる客たちや、NATO情報部内に沸き起こる騒乱を。
しかし、彼女もこれだけは予想していなかったに違いなかった。
(…馬鹿げている。誰が信じるものか)
誕生日当日、スーツに包んだ広い背中に逆巻く嵐の予感を背負い込んだ少佐の前で、NATOボン支部の自動扉はまるで気圧されたように左右に開いた。
昨夜はただ、誕生日前日の夜だったというだけだ。
いつもの歌の4小節目で眠りについた。しかし真夜中、聞き慣れた声に少佐は起こされた。
「少佐、少佐、ちょっと起きてくれんかね」
寝起きの良い彼はまず目を見開いた。聞き慣れた声であっても、電話以外では彼の寝室で聞くような声ではなかったからだ。
そして、横たわっている自分を覗き込んでくる恰幅の良い中年の顔を視覚が認めた途端に彼の口は驚きの形になって開かれたが、鉄の自制ですぐに唇は引き結ばれた。
「考えられませんな、部長…何が起こったんですか」
最悪の目覚めだと後ろ頭を掻き揚げながら、少佐は上体を起こして上司を睨むように見た。
深夜に突然、部下の寝室を訪れるなど、どんな種類の火急の任務か。
この家の回線には可能な限りの盗聴防止策を施してある。それでも直に顔を合わせる必要があるのだからよほどの事態に違いない。
部下の気分を考慮しない目覚めにしてくれたものだ。
だが、少佐はふと気がついた。
通常、エーベルバッハ家では来客があったら執事に取り次がれる。いかなる客であっても、例えスイスにいる父親が突然帰ってきた場合でもだ、執事が客を主寝室に取り次ぐなどありえない。
黙って入ってくる以外は。今まであの英国産の泥棒にだって入らせたことはない。
(だがあいつは問題外だ。正面玄関からやって来て朝食とマイセンを盗っていきやがった)
いつ扉が開いた?開けば自分は気づくはずなのだ。神経が鈍ったのか。
ぞっとする気分に目を背けて、少佐は両手で自分の頬を軽く叩くと、ヒゲを撫でながら興味深そうに自分を見ていた部長はにっこりと笑った。
「君に一日限りの贈り物をしに来たのだよ」
「…上手くない言い方ですな。それで深夜に人の寝室に入ってくるような真似までするほどですからよほど重要な任務なんでしょうね、部長」
少佐はぶっきらぼうに言いながら、場所を変えるべきだと考えた。3分で用意して、その間に部長を一階の応接室に向かわせればいい。
「いやいや、それには及ばんよ。話はすぐに済む」
「…じゃあ明日、いや、今日はボンから離れるというわけですか。どこに行けばいいんです?」
答えは拍子抜けするようなものだった。
「いつもの君の生活で構わんよ」
「いったいどんな任務なのかさっさと早くお吐きなさい。これでBにやらせる程度のものだったら、いくら上司でも窓からお帰り願いますからな」
「しかし、とても重い責務なのだよ、クラウス」
少佐の眉が一瞬ぴくりと跳ねた 。わざわざファーストネームで呼ぶとはどんな嫌味か。
部長は、ふむ、と一つ鷹揚に頷いた。
「どうやら君の目には、わしが君の上司の姿に見えるようだな」
「いい加減にして下さいよ。あんたがおれの部長でなかったら一体誰なんです」
やっと訊いてくれてうれしいよ、と部長は微笑みを浮かべて、少佐と比べれば寸足らずな手を広げた。
「わしのこの姿は君の思考が反映されているのだよ、少佐。本来のわしには一定した形や名前はない。ヒトには時に神と呼ばれてきたが、君の意識がわしという存在に形を与えたならば君の部長というものに酷似していたというわけだよ」
誇大妄想の傾向がある痴呆と夢遊病、か。
ベッドの端に腰掛けて、腕を組み、それまで押し黙って聞いていた少佐は口を開いた。
「…あんたの定年まで待たねばならんと思っていましたが、案外お別れは早く来たようですな」
「考え方が固いのう。人生は楽しんでいるかね?」
「あんたの免職後には明るくなりそうです」
「ほう、今までは違うというわけだな。やはり頑固すぎると周りの風当たりも厳しかろう。だが君は運がいい」
腹の出た中年に深夜叩き起こされ、人生は楽しいかと尋ねられて是と答えることができる以上の不運など、考えたくも無い。
部長は、いや、部長の姿をした自称神様的存在は意気揚々と楽しげに続けた。まるで楽しい場所にこれから案内するとでもいうように。
「ほとんどの人間は自分の番を待たずに寿命が来てしまうのだよ。明日は君の誕生日だ。君が自分の人生をより良いものにするための贈り物を授ける」
「それはありがたいことですな」
「これ、あくびなどして。ここから大事なことなのだよ」
「はいはい」
「まあ覚えておくのだ。明日一日、君は全能の存在になる。君の願いはなんでも叶ってしまうのだ。ただし、この世界のあらゆる物事は常に一定の比率が守られなければならない。これを覚えておくことだ」
「ほうほう」
「気のない返事だのう。皆喜ぶか驚くのに、君みたいな男は初めてだぞ」
「わかりましたよ。とりあえず、そろそろお帰り願いたいですな」
「おお、睡眠の邪魔をしたのは悪かった。なかなか忙しい身なもので」
「仕事中にGにメールするのをお止めなさい。あんたが全部の文字を打ち終わる間におれは書類を5枚片付けられます」
「明日は上から見守っておるからな。健闘を祈るぞ」
ふっくらした手を振って背中を向けた神様部長に、少佐は念を押した。
「いいですか、メールは減らしなさい」
「ならば明日それを願いなさい。グート ナハト!」
「免職後に天下りなどさせませんからな!グート ナハト!」
丸い背中に思い切り声を投げてやった後、部長の姿はふっと煙のように掻き消えた。少佐は瞬きした。
そして上掛けを掛けなおし、再びベッドに横になった。
だいたい、来た時もわからなかったくらいだ。去る時もわからなくなったからといって特に気にする必要はない。
室内はまだ暗い。
そういえばベッドサイドのランプも点けなかったのだ。しかし、部長がいた時は気にならないほど明るかった。
(まあどうでもいいことだが)
少佐は目を瞑り、いつもの歌を歌い始めた。しかし今度はなかなか長引いて、羊がメリーさんをけなげに待っているところまで歌ってしまった。
定刻通りに朝の食卓につくと、読み終わった新聞を受け取った執事が嬉しげにこう伝えてきた。
「スイスのお父上からお電話が」
「今か?」
作品名:クラウス オールマイティ 作家名:bon