愛着理論
エピローグ3
「こんにちは。総務の岩倉さんお願い出来ますか?」
受付の女性の営業スマイルに、余所行きの顔で尋ねる。
「はい、お名前は?」
「田中です」
前もって用意しておいた偽名だ。
「田中様、ですね。少々お待ちください」
すぐに内線をかける受付嬢の顔を観察しながら、臨也は詰めていた息を吐いた。あれこれ聞かれるかと用意していた小道具は不要だったようだ。胸に下げている社員証は見覚えの無いものだったので、派遣社員なのかもしれない。ロビーには誰もおらず、受付嬢の持つ受話器から、微かに話し声が漏れ聞こえる。
臨也は、テスト期間が終わってすぐに父親の会社までやって来た。父親は仕事が忙しいようで、夜遅くまで帰って来ない日が続いていた。それが本当かどうかは分からない。その気になればすぐに分かることだったが、臨也はそれをしなかった。
とはいえ、全てに目を瞑っているわけにもいかなかった。女がまた押し入って来ないとも限らないし、何より、あの日のことが父親に漏れることは避けたかった。臨也はそれ以外の逡巡を全て呑み込んで、静かに受付嬢の答えを待った。
「……岩倉は本日欠勤しているそうです」
電話口を押さえた女性は、少し眉を下げて言った。
「そうですか」
予想していたことなので、臨也は驚かなかった。相対した時点でまともな精神状態ではなかっただろうし、その後首を絞られスーツケースに詰め込まれたのだから、無理も無いことだろう。
臨也は受付嬢に礼を述べてからロビーを出た。蒸し暑い真夏の空気に、嫌がる体を無理やり押し出す。駅へと向かう道は背の高いビルが密集していて、余計に体感温度を高めた。この一画だけでどれほどの人間がひしめいているのだろう。臨也はビルの窓に反射する光を手で遮る。この暑い中、臨也はやはり長袖だった。女に付けられた傷はまだ治らない。暑い夏になりそうだった。
臨也は不意にポケットに手を突っ込み、プラスチック製のカードを取り出した。
「連絡先の分かるものをもらっておけばよかった」
一人呟く。女は人畜無害そうに微笑んでいた。ウォレットチェーンに通した家の鍵が2本、ポケットの中でチャリチャリと音を立てる。
臨也は唇の端をあげて、笑った。