月が綺麗
『月が綺麗』
鴉乃杜神社母屋の縁側。
其処へ座って夜半の空を見上げていた雉明零は、気配が己へ近付いてくるのを感じ、視線を地上へ戻した。
後ろから肩にふんわりと柔らかいものを掛けられる。毛布。
「こんな時間にそんなとこ座ってたら冷えるよ」
毛布を掛け終えた指先が、そら見ろとでも言うように雉明の白い頬を擦ってから離れていく。
「顔、冷たい。折角風呂入ったのに」
「七代」
覗き込むようにして雉明を見詰める七代千馗は、呆れたようにやさしく微笑んだ。そうして、雉明の隣へ腰を下ろす。七代の手には七代の為の毛布はどうやら無いようだったので、雉明は己に掛けられたそれを返そうとしたのだが、七代は黒い色の視線でもってそれを制して受け取ろうとしない。
「おれは……寒さをあまり感じないから、これはきみが、」
「関係無い。お前の身体は冷えてるの。だから大人しく使っとけって」
七代の強引な物言いに雉明は一拍瞬き。それからふと小さく微笑した。
「…………そうだったな、きみは決して譲らない男だった」
「ん?」
「初めて会った時もきみはそうだったなと、思い出した」
ちからを齎すあの杖を。如何にして刺すのかという事についてあの時随分揉めたものだと、雉明は脳裏に仕舞われていた大事な映像を見詰めた。雉明の提案も武藤いちるの提案も、七代千馗は聞かなかったのだ。本当に頑として。
今の七代千馗はあの時と同じ顔をしている。何を背負おうと何を成そうと彼は変わらない。執行者でなかった彼も、執行者となった彼も、変わらず彼は七代千馗なのだった。
「温かい。……ありがとう、七代」
雉明が微笑むと、それは七代の口許にも伝播したようだ。
「うん、良かった」
雉明にとって一番温かいものは、眼前で此方に向けられるその笑みだったのだけれど。
「…………で、こんな寒いとこで何を眺めてたんだ?」
七代は先刻の雉明の視線を追うようにして、濃紺の深い夜空の色を見詰めている。雉明も七代の横顔からゆっくりと視線を外して空を見上げた。
「月を」
そう応えると、七代は訊ね返すように雉明の言葉を繰り返した。
「月?」
「ああ。寒い時は月や星が見えやすい。ほんとうにそうだ、と思って、此処から眺めていた」
七代が来る前と同じように、雉明は暗闇というにはほんの少しだけ明るい夜の空を仰ぎ見る。
大きく欠けて尖る白い月の儚さ。其処へ注がれる曇りない眼差。夜の空気が青い紗のように、雉明の皮膚へ重なっていた。
仰がれた顎から首筋へ伸びて肩に繋がる、その輪郭を七代はじっと眺めている。こうして灯りの少ないところで晒されると雉明の皮膚は仄かに淡く、光を放っているかのようで。真摯な眼を月から離そうとしない雉明に、七代は小さく苦笑した。
「、七代?」
「いや……、うん、ごめん。その、雉明があんまり熱心に月を眺めてるからさ。このまま月に帰っちゃうんじゃないかって思って、ちょっと心配になった」
「おれが、月に、?」
雉明にとって、七代の言葉はとても突拍子が無い。いくら数百年を経て積まれた知識の波を浚おうと、いくら書物を読み漁ろうと、七代はいつもそれらを簡単に飛び越えてしまう。七代千馗の唇から零れ落ちる言語はひどく難解で複雑で、浅いのか深いのかもよく判らない。けれど何処か恐ろしくなるほど精密で、そして何もかもどうでも良くなってしまうほど、温かいのだ。
何故自分を竹取物語の姫に喩えるのだろうかと雉明はその意味を考えながらも、七代千馗の声音に灯る温度の心地良さについて気を取られていた。
「妙に、儚いような気がしてさ」
呟いて。七代は先刻のように雉明の頬へ自分の指をじっと触れさせる。
存在を確かめるように。触れる白い皮膚に己の体温を分け与えるように。接着する部分からゆるりと皮膚が温んでいくのを雉明は感じた。
この熱は、七代千馗のものなのだ。そう思えば自分の頬の温みも、雉明にとってひどくいとおしいものになる。
「雉明は前からなんか、儚いけど」
そう言いながらすべらかな皮膚を撫で。そして七代は、意思を強く乗せて口角を吊り上げる。
「まあ…………火鼠の皮衣だろうと蓬莱の珠の枝だろうと燕の子安貝だろうと、お前がそれを求めるのなら絶対に探し出すし、羽衣が雉明を連れてくっていうなら俺はそれを燃やすわけで。お前を帰らせたりは、しないけどな、絶対」
七代千馗の発する語勢に、ただ雉明は圧されて瞬いた。
ひどくおそろしい言葉だというのに、それへ全く反発の起こらぬ己の胸郭が雉明は少し可笑しかった。何故、七代千馗へ対する時、己はそうなるのだろう。雉明はその反応について不思議であるようにも、当然であるようにも思う。相反する気持ちが同じく在る複雑さは、以前の雉明には持ち得なかったものだ。
これがこころというもの。
人間というものが有する複雑さについて知ってはいたつもりだったが、こうしていざそれを懐に抱えてみると感慨はまるで違っている。
「帰る、とは…………きみも可笑しな事を言うんだな、おれには帰る処などないというのに。おれには帰るべき処、なんていうものはない。…………もし、あるとすればそれは、七代、きみの傍だけだろうな」
七代千馗の傍らに居る、雉明にとって意味があるのはそれだけだ。
雉明が己の心に浮かんだものをそのまま零すと、七代は少しだけ息を詰めたようだった。雉明はそれを見詰めながら、何故七代がそんな顔をするのかよく理解出来ず。ふと、先刻帰るなと言われた白い月を、再び眺めた。
静謐に光を湛えてひかる月。
雉明は数百年の間、月をうつくしいと思った事がないわけではなかった、けれど、七代千馗の居るこの場所から見上げる平穏な月はなんとうつくしいのだろうかと、心の底から本当にそう思ったのである。かつてこんなにも月をうつくしいと感じた事は無かった。ただの一度も。だから、ずっとそれを眺めていたのだ。
「七代」
月から眼を離さずに、雉明の声が落ちる。
「本当に…………月が…………、きれいだな」
たとえば誰かと共に見る。誰かの居るその場所から見る。
そんな外的要因がそのもの自体の印象を著しく変化させるなど、雉明は今まで知らなかった。こんなにも月のうつくしさが変わるなどと。それを雉明に教えたのは、七代千馗である。
「雉明…………、お前、それ、」
雉明の言葉に驚いて眼を瞠ったあと。七代は僅かに可笑しそうに笑い。何かを言い掛けて、結局は止めた。
「七代?」
「…………………………いいや、うん、やっぱり訊かない事にするわ」
笑って。それからするりと手を伸ばし、雉明の細い肩を捉える。そこから首筋に触れた。ひんやりとして滑らかな皮膚は、七代にとって一種の魔力めいたものを持っていて。己に及ぼされるその効力について考えながら七代はそれを、自分の方へ引き寄せた。
「雉明」
あんな事を言った、雉明が悪いのだ。
突然身体が引き寄せられた事へ少し驚いた風に雉明は七代の表情を窺っているのだが、それを無視して。
七代は顔を交差させるようにして唇を寄せる。
「、七……、」
吐かれる己の名のあと半分を、口腔の中へ閉じ込めた。