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今はただ眠りたい

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その日、ルートは半月ぶりに自宅に帰る事が出来た。

 仕事が終わらなかった……というのは正確ではない。ひとつ終われば次の課題と、止められなくなっただけだ。 遊ぼうよ。と連絡してきたフェリにそう告げると、彼は実にあっけらかんと笑った。
「なんだよそれ~。お前にとって、仕事とスナック菓子は同じなの?」
「どんな例えだ!」
 思わず怒鳴ったルートだが、むっとしたという事は「痛いところを突かれた」という事でもある。
 ごめん~。と謝ったフェリは、「でも、あればあるだけの仕事をこなしてしまおうとする性格は、どうかな」と小声で反抗してきた。
「勝手に言ってろ!」
 一方的に電話を切り、以後職場に連泊してまで仕事に没入した。何の断りもなくルートの寝室に押し掛けてくるフェリだが、さすがに仕事場までは顔を出さなかった。
 連絡を絶ったのはルートの方なのに、なぜか見捨てられた気分になるのが腹立たしい。

 ネクタイを緩め、ジャケットとシャツを脱いで居間の寝椅子にどっかりと腰を下ろす。
 何か食べるものはあったか。いや、まずビール。いやいや、犬たちの餌はどうなってるんだ? ハウスキーパーに任せておいたから、大丈夫だろうが……。
 疲労した思考回路は、止めどなく気がかりの断片を紡ぐ。さっきまでフル回転していた脳みそは、現在クーリングダウン中。 どんなに身体が疲れていても、目が冴えて眠れない。
 ひじ掛けに上体を預け、安楽な体勢をとってみる。こういう状態でベッドに入ると、却って「眠れない自分」を意識してしまって寝つきが悪くなる。やはり軽く食事とビールか。と思った時、室内で誰かが動く気配がした。
 誰だ。と問うのも面倒で、ルートは視線をそちらに巡らせる。
「眠れないの?」
 囁くように声をかけてきたのは、フェリシアーノだった。手にジョッキを持って、ルートを見おろしている。
「ローデさんが、お前が帰宅したって連絡くれたんだ。だから……」
 手渡されたジョッキには、白ビールが満ちていた。 身を起こし、物も言わずに喉に流し込む。いつも呑んでいるなじみの味が、身体にしみた。
 ジョッキを一気に呑み干したルートを見て、フェリはため息をついた。
「お前、疲れてるだろうと思ってさ。様子を見てベッドにもぐりこむつもりだったんだけど」
 床にペタンと腰を落とし、フェリはルートと視線を合わせる。何か言いたそうな表情で見つめられたルートは、何故かやっと安らげる場所に戻った気分になった。
「いつまで待っても、こんな所で倒れて動かないし。俺、心配で我慢できなかったんだ」
「……そんなに時間が経ったのか?」
 少し休憩しただけのつもりだったルートが訝しげに問う。すると、フェリの手が彼の額にそっと触れた。
「そんなことも判らなくなるくらい疲れるなんて、どうかしてるよ。今は大事な時期なんだろ? 身体を壊したらどうするの」
 フェリの指が、彼の髪を梳くように撫でる。ルートの脳内で凝り固まっていた疲労がほぐれてゆく気がして、彼は目を閉じた。
「ねえ」
 再び座椅子に横たわったルートに、フェリが呼びかける。「何だ」と応じたつもりだが、声に出なかった。すると、フェリがルートの上半身に乗りかかるように近づき、囁いた。

「ねえ。キスしていい?」

 思わず目を開けると、彼を覗き込むフェリの顔があった。いつもの「ハグしてキスして~」とねだる時とは違う、泣く寸前に見えるほど真剣な表情だった。
 了承の返事代わりに、フェリの頬を軽く指で撫でる。彼の意思が伝わったのか、フェリは微笑んで身を乗り出してきた。狭い寝椅子の上で抑え込まれると、多少居心地が悪い。普段のルートならとっくに相手の胸倉つかんで振り払っているところだが、限界まで張りつめていた気が緩んでしまった現状では反応が鈍くなっている。
(それに、俺がこいつに警戒することなど何も……)
 などと考えているルートの瞼に、フェリの左手が被さった。視線を遮られて思わず身を起こそうとすると、息がかかるほど間近にフェリの顔があった。
 お互いの鼻先が触れあったと思ったら、次の瞬間にはフェリの唇が重ねられた。キスと言えば頬かせいぜい額だろうと思っていたルートは、今度は身を引こうすとする。
 だが、彼が今いるのは寝椅子の上。しかも、フェリが彼の胸に乗りかかっている。声を発しようと口を開くと、フェリの舌が滑り込んできた。互いの舌が触れた事に驚いたのか、舌先でルートの唇をなぞってから、逃げるように引っ込む。
 ふと気付くと、フェリの両手が彼の顔をしっかりとらえている。少し斜めにかぶせたフェリの唇が、ルートの下唇をついばむように軽く吸った。
「ま、待て!」
 ようやく声を出せた。フェリの唇が弾んで遠ざかるのを感じて、ルートはつい彼の両肩を掴んでしまう。見上げると、悲しそうな表情のフェリの顔があった。
「隙だらけじゃないか」
 呟いたフェリが、ルートの胸板を拳で打つ。
「俺なんかにつけ込まれるほど疲れてるの、おかしいよ。お前らしくない。
 俺に何も手伝わせてくれないならさ、自己管理くらいちゃんとやってよ!」
 こん、こんと。ノックするように叩くのは、ルートの心臓の上。
「俺、こっそりベッドにもぐりこんで、明日はいつも通りへらへら笑うはずだったのに。こんなの、だめだよ。俺心配で、黙っていられないよ」
 こんな事、言わせるなよ~。半泣きで呟くと、フェリはルートの胸に顔を伏せた。
 余計な心配だといいたいところだが、どう考えても説得力皆無。まして心配させた事が身にしみた現状では、文句など言えるはずがない。
 ルートはフェリの背中を撫で、言葉を探す。
「以後、気をつける」
「やり過ぎは、身体に毒だよ」
 ありきたりのやり取りだが、フェリは安堵したように微笑んだ。納得してくれたらしい。
「安心したら、眠くなっちゃった。ルッツ、お前も寝室に行った方がいいと思うよ。一緒に寝よう!」
 無邪気に何を言っているのか、自覚がないところがフェリらしい。
「あいにく、俺は目が覚めてしまった。誰かさんのキスのせいでな」
「え~? それじゃ、俺はルッツの王子様ってことになるのかな」
 ふにゃリと笑ったフェリの表情は、次の瞬間固まった。
「……え?」
 ふっくらとしたフェリの口唇を、丸ごと覆いかぶせるように。ルートは、両手でフェリの顔を引きよせて唇を奪った。フェリの意志も言葉も封じる勢いでキスを重ねる。
 呼気を求めてわずかに開いた隙間から舌を這わせ、歯列沿いに口腔奥まで攻め入る。
 たまりかねて、噛みしめていた顎が緩むフェリ。積極的にからんできたルートの舌を、迷いなく受け入れた。もぞもぞ動かしていた両手は、浮かせたルートの後頭部を支える位置で落ち着いた。
作品名:今はただ眠りたい 作家名:玄水