魅惑の彼氏。
「はっ・・・・!!」
ベッドのスプリングが軋む音で自分が飛び起きたのだと理解し、臨也は顔を赤らめて思わず室内を見回してしまった。馬鹿みたいに動揺している姿なんて誰にも見られたくはない。荒い息をつきながら、そっと額の汗を拭った。部屋の中には誰もおらず、壁の掛け時計の音ばかりが響いている。
誰も、いない。
そのことにようやく思い至って、臨也は呼吸を落ち着かせるために細く息を吐いた。
「ゆ・・・夢・・か」
冷や汗で背中がじっとりと濡れていた。不快さに眉をしかめる余裕もどこかに飛んでいってしまったような頭で、なおのこと臨也は落ち着きなく辺りを見回す。
当然誰もいるはずがなく、ドアは鍵がきちんとかけられたまま閉まっていたし、ベッドの上には寝ている間にはずれたらしい女装用のウィッグが落ちていた。
まだうるさく鳴り続けている鼓動を煩わしく思いながら、ウィッグを見て化粧を落とさなければ、と立ち上がる。ファンデーションが汗で溶けかけていて、ひどく気持ち悪かった。
足に力を入れて立ち上がれば、後頭部の内側のあたりに鈍い痛みがはしって咄嗟にたたらを踏む。二、三歩ふらつくと何とか痛みはマシになったが、今度は喉の渇きがひどくなって咳き込んだ。
「くそ・・・・さいあくだ・・」
なんという馬鹿らしい夢だろう。そして自分のこのざまときたら。掠れた声で毒づき、臨也は舌打ちした。
ほとんど満身創痍の体でよろよろとシャワールームへと向かう。とにかくまず化粧を落としたかった。
たとえ平和島静雄に追い掛け回されてもここまでは疲れないだろう、と思いながら寝室の鍵を開けてダイニングキッチンを通る。そこで喉の渇きを思いだして、通り過ぎざまにミネラルウォーターのボトルを取るために冷蔵庫を覗いた。
「・・・・・・・あれっ・・・」
臨也は伸ばした指先を宙に浮かせたまま、冷蔵庫の二段目を見つめて凍りつく。
そこには、露西亜寿司で買ったと思われる、きれいに並んだ大トロの詰まったパックが、まるでそこが定位置だと言わんばかりに違和感なく納まっていたからだ。
夢だったはずだが。あれは夢だったはずなのだが。
頭の中で、何度もそう繰り返す。何が起きているのかわからない。ありえないことだと思いながらも本当にありえないことかどうかを疑問に思う自分もいて。もはや何処までが夢で、何処からが現実なのか、理解できない。
そうして、落ち着いたと思った混乱が再び臨也の脳内で暴れまわるのに、さして時間はかからなかった。
臨也が再び奇怪に遭遇するのは、それからまた三週間ほど、後のことである──。