カテリーナ
1.
愛だの恋だのと、くだらない。
惚れた腫れたなど、愚かな人間がやるものだと思っていた。
―――――そう、彼女に会うまでは。
“カテリーナ”
私は愛を知らない。
誰かを愛したことも、誰かを大切にしたいと思ったこともない。
身体を重ねたこともあるし、口付けをしたこともある。
けれど、いつもそこに愛はなかった。
先週も、「貴方は私を愛してるの?」と頬を叩かれたばかりだ。
もう何度目かわからない恋人との別れがあっても、別になんとも思わない。
くだらない。愛とはなんだ?誰かを慈しむことに何のメリットがある?
誰かを抱きしめ、口付けることが何の役に立つ?
そんなもの私には必要ない。私の人生に愛など要らない。
そう、思っていたのだ。
私――本田菊は、駅の中にある小さな書店でアルバイトをしていた。
高校では部活にも所属していなかったし、暇を持て余していたのだ。
学校帰りに寄ることができる位置にあり、仕事内容も安直なアルバイト。
給料は少ないが、金を稼ぎたいわけではないのでちょうどよかった。
なにより私は本が好きだった。
バイトを始めて半年程経った頃、その日はやってきた。
忘れもしない12月最初の週。金曜午後18時すぎ。
レジ机の上に、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」上巻がコトンと載せられた。
「ありがとうございます。」
分厚い文庫本を手に取り、スリップを抜き取る。
レジに値段を打ち込み、ようやく客に目を向けた。
ドクリと、全身の血が沸騰したように熱く脈を打つ。
目の前に立つ少女が信じられないほど美しかったからだ。
さらりとストレートに流れる白銀の髪。アメジストのような輝きを放つ瞳。
頭には大きな純白のリボンが結ばれている。
コンマ1秒で我に返り、文庫にカバーをかけた。
「お、・・・お先に、商品失礼いたします。」
カバーをつけた文庫を彼女に渡す。
彼女は無言でそれを受け取り、まじまじと見つめた。
代金を受け取り、釣銭を返すとそれまでずっと結ばれていた彼女の唇が小さく動いた。
「中巻は、ないのか?」
それが、カラマーゾフの中巻がこの店にあるかという意味だとわかるまで少しの時間がかかった。
「あ、ええと、在庫は店にでているだけになります。申し訳ありません。」
いつもの決まり文句。
小さな書店に在庫を置いておくスペースなど存在しない。
私はそうか、とつぶやいて帰ろうとする彼女を引きとめた。
考えるよりも早く、口をついて言葉がでた。
「あ、あの!お、お取り寄せ・・・致しましょうか!」
後から思えば、そんなことをしなくても他の書店で簡単に手に入れることができたはずである。自分の口からでた言葉に自分自身で驚きながらも、彼女の返答を待った。
「・・・来週までに、頼めるか?」
「え、・・・あ、はい!かしこまりました!」
まさか本当に取り寄せを頼まれるとは思っていなかったので、私の声は少し上擦っていた。なら何故あんなことを言ったのだと思われるかもしれない。
けれど、わからない。私にもわからない何かが、私の口を、唇を、声帯を、動かしたのだ。
「頼む」
ぽそりと一言答えると、紺色のスカートを揺らし、ローファーを軽快に鳴らしながら、彼女は帰って行った。
私は、彼女が見えなくなってからも、出口を見つめていた。
**
「どしたの?菊ちゃん」
この書店の店長であるフランシス・ボヌフォアが私の目の前で手をゆらゆら揺らしていた。
もう19時を過ぎている。
レジから見える窓の向こうで、雪が降っていた。
「あ、す、すみません。店長・・・」
ハッと我に返り、店長を見た。
すぐに謝って、頭を下げる。
「いやいや、いいんだけどさ。菊ちゃんがぼんやり仕事してるのなんか初めて見たから。俺がバックにいる時、なんかあった?」
この書店では、18時から閉店の20時半までアルバイト一人と社員一人の合計二人で店を回している。小さい店で、夜は人の入りも少ないので十分な人員である。アルバイトはレジを担当し、社員はアルバイトには任せられない用事をこなす。この日はバックでの仕事があったようで、私は18時からずっと一人でレジを任されていた。
「あ、ええと。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の取り寄せをお願いできますか?」
「んーほいほい。あー・・・それってさー、もしかして銀髪で紫の目で頭にでっかいリボンのせてる子?」
ドクリと、大きく鼓動が波をうった。
口の中がからからに乾く。
ごくり。唾液を飲みほして唇を開いた。
声は、かすれていた。
「か、彼女のことを、知っているんですか!?」
自然と、声が大きくなった。
必死だな・・・とどこか冷めたもう一人の私が、心の中で嘲った。
『さっきまで、この世に絶望しているような顔をしていたのに』
店長は、私のことなんか気にせずにあっけらかんと答える。
「知っているっていうか・・・常連さん?あと俺あの子の兄ちゃんの知り合いっていうか・・・そういう関係。彼女、ナターリヤ・アルロフスカヤちゃん、って言うんだよ。」
彼女の名前を聞いて、また心臓が跳ねた。
どくり、どくり。身体中が熱くなったり寒くなったりで忙しい。
「ナターリヤ・アルロフスカヤ・・・さん・・・。」
彼女の名を、口に出してみた。
ゆっくりと、ゆっくりと。味わうように。
店長は話を続ける。
「毎週のようにロシア文学買ってくからさ~。社員の間では結構有名なんだよね。」
店長の話は私の中に右から入って左に流れていく。
私の頭の中は、彼女の名前だけが、ぐるぐると回っていた。
「ナターリヤ、さん・・・。」
「おーい!菊ちゃん、聞いてる~?」
また店長が目の前で手をひらひらさせていた。
ハッとなってまた頭を下げる。
「す、すみません!」
「多分菊ちゃんと同じ学校だったと思うけどなー。制服、同じだったでしょ?」
「・・・・ああ!」
そういえば見覚えのある紺のプリーツスカートだったと思い、手を叩いた。
女子の制服になんて全く興味もなかったから、思考の奥の奥に埋められていたのだ。
明日も彼女に会えるかもしれない。そう思うと、仕事は手につかなかった。
雪はしんしん降っていた。私の心とは関係もなく。しんしん、しんしんと。
明日には積もるかもしれない。そんなことを頭の隅で考えた。
けれど、すぐに彼女の名前に浸食されてしまった。