フェアウェルの羽音
最後の荷物は悪趣味な猫足つきのバスタブで、それを運び出せば、彼らのオフィスにはものというものが一つもなくなってしまった。
引っ越し業者の帰った部屋にはさっきからもうずっと、折原の口ずさむ、メロディラインのずたずたになった妙な曲が気もちの悪い大きさで流れ続けている。物のなくなったぽかんとした四角い空間で、波江は部屋の中央に子どもみたいにあぐらをかいた折原に対峙するように、キッチンの水滴ひとつついていないシンクにそうっと体重をかけて凭れかかっている。
ふんふんふん、ふん。波江のよく手入れされた短めのつめさきが、自身の像を歪んだかたちで結ぶシンクの鈍色に、かつりと当たって正体の分からぬ苛立ちを教えていた。無機物ばかりがいつも彼女の味方をしている。想像ばかりが、彼女の傷を甘ったるく補完している。いつも。
「ねえ、何なの、その曲」
「知らないの?」
――「知らないの?」と、言うのが、口癖のような男だった。こんな男、波江は死んでも恋人にしたくない。何を聞いても知らないの?と言う。そうして自慢げに、どこか楽しそうに、時に真相を、時にデマを、よどみなくその長い舌先から紡ぎ出すロジカルぽい折原の言い草。
「作詞作曲、折原臨也。引っ越しの曲」
「くだらない」
「そうだね」
ふんふんふん、ふん。彼はまるでくすんだ真鍮(波江はそれを実際に見たことはなかったが、比喩として選びとれる言葉は全て、自分自身が納得出来ればいいのだから問題はない)みたいな顔色をしている、と彼女は思った。
取捨選択に飽き、いくつかの進路をつくりだすにも倦み、年をとるのも疲れてしまったような、人生を生き切ってしまったようなふしぎな達観。波江はわけもなく苛立っている。折原は表向きだけ機嫌がよさそうにふるまっている。でもそんなのはいつものことだ。このオフィスがまともな人間らしい思考に満ちたことは、たぶん創業以来一度だって、ない。
「波江は何考えてるの。今」
珍しく人の意見を聞くじゃないか、と波江は思った。そのことが二人の恒常化した空間に、奇妙な日常との差異を投石していた。夏の盛りに構わず、カーテンもない、ざらつく陽光の入り放題の、冷房だって効いていない室内だ。大きな、この街を一望できるガラスの背丈大の窓は開け放たれていたけれども、それでもそこからは風なんて一筋も入ってこない。誰かがマンションの前に撒いた打ち水からは、この高層の部屋にさえも、むっとするような湿気が運び込まれていた。
力ばかりをむやみに誇示する光と、滞った空気と、蒸すような湿気だけが二人から冷静さを奪ってゆく。
――しかしてぴったりと体のラインに沿うようにつくられた半袖の白いカットソーや、小ぶりだけれども上品なシルバーの、チェーンだけのネックレスが影をつくった肌理の細かな鎖骨や、1200円のストッキングに覆われた彼女の足ばかりがいつまで経っても汗をかいていて、目前に座る七分袖のカットソーの男の肌に水滴みたいなものは一欠片だって認められない。いつだって、自分と世界とは無関係ですよ、というフェイクを保っていたがる男だけれども、こんなところまでその所作を徹底するのはよして欲しいと心底思う。
波江は汗ひとつかいていない折原に、やつあたり半分で言い返す。どうしてこんなにもじりじりとしているのか、波江にはよく分からない。だけれど折原に対面するときに、平穏な気持ちであったことなど数えることしかなかったことに彼女は本当は気がついている。
今日出てゆけば、すべては終わるというこの日にさえも。
「あなたと別れられるのは清々する、ということ」
「そう」
口ずさむ音が、止んでいた。波江のつめが神経質にひっかくシンクの音が、かすかに、虫の羽音にも似た微弱さで彼女らの耳をついている。波江は溜息をついた。折原の喋る口調の音程は、いつもとはまったく変わらない。
これからどうするの、という問いは、互いにとっては必要ではない。このまま道を分かつ二人はたぶん、往来ではもう二度と会わない予感があった。
……若しかしたら、いつか、何十年かずっと先に、道ばたでばったり出くわすことだってあるかもしれない。
見た目の変わっているところがまるで想像できない折原が、波江を見つけて、今までと変わらない速度と音程で彼女の名を呼び、「ところでいい話があるんだけど」などと声がけるシチュエーション。……
だけれどそれについて波江は上手に映像を結べなかったし、すべてが終わった今、ふたりにこの街に留まる理由はほとんどない。さようならなのだ、と波江は思った。さようならの一言を、言うべきだろうか。この男と自分との間にその言葉は本当に適切だろうか。
区切りをつけること。分厚い本の一章を終えること。彼女の人生のどこかしらに甘いべとべとする染みを付けた、彼について語ること。終わらせてしまって、熱い鉄をうったあとみたいに、もう二度とくっつかない断面を手でなぞってその感触を確かめてみること。そのすべてを「思い出」というカテゴリに分類してしまうこと。
「困ったな。波江。俺は生まれてからはじめて、うまく言葉が出てこない状況に陥ってるよ」
「……私もよ。もっとも、あなたにかける言葉なんて最初からないけれど」
「冷たいねえ。俺の秘書は」
「その呼び方は嫌いだわ」
「そう」
会話に困ったら、分かったようにそう、という癖が折原にはあった。そんないくつかの彼という人間に関する特徴を、把握してしまっている自分に波江は気がつく。汗でべたつく長い髪を払いのけて、彼女の方を見ない折原を、対する波江は立ったままずっと見つめている。――虫の羽音のように微弱で耳障りな、シンクをたたくつめさきの音。
「波江」
折原の呼ぶ声に、動揺は見られなかった。平静さはいつものように彼の頭髪からスリッパの履かれた足のつまさきの尖端までを覆い、その無表情じみた笑顔が、壊されるところを波江はまだ見てはいない。
今日初めて、折原が波江の方を向いた。
部屋の中央に座っていた彼は振り向いて、ナンパをする前の男がそうするように女の全身をゆっくりとした目線でうえから下まで検分する。折原は目を細めて、左の口びるの先だけをゆがめて笑った。その笑顔は全然上手なものではなく、ただ、なんとなく皮肉げに笑う、親の愛情をきちんと受けないで育ったおなかを空かせた子どもみたいだ。
予備動作も何もなく、座ったまま、手首だけのスナップで折原から弧を描いて投げられた何かを、波江は咄嗟に左手で受け取る。愛想のないじゃらん、という音が、反響するものもない白い空間にざらつくように響いては消えた。
「ナイスキャッチ」
小指に嵌められた石のついていない華奢な指輪と同じ色をしたそれは、そっ気のないただの鍵である。
だけれど波江はそれに見覚えがあった。鍵の先についたチェスの駒の悪趣味なキーチェーン。クイーンの黒が、てらてらとした質感で波江のことを見つめているような感覚。スペアキーのない、王たる彼しか持っていない、この部屋唯一の鍵だ。
「……どういうつもり?」
「俺はもう要らないから、君にあげる。証書類は台所の包丁入れのところにしまってあるから持っていくといい」
「どうしてそんな悪趣味なところにしまったの」
引っ越し業者の帰った部屋にはさっきからもうずっと、折原の口ずさむ、メロディラインのずたずたになった妙な曲が気もちの悪い大きさで流れ続けている。物のなくなったぽかんとした四角い空間で、波江は部屋の中央に子どもみたいにあぐらをかいた折原に対峙するように、キッチンの水滴ひとつついていないシンクにそうっと体重をかけて凭れかかっている。
ふんふんふん、ふん。波江のよく手入れされた短めのつめさきが、自身の像を歪んだかたちで結ぶシンクの鈍色に、かつりと当たって正体の分からぬ苛立ちを教えていた。無機物ばかりがいつも彼女の味方をしている。想像ばかりが、彼女の傷を甘ったるく補完している。いつも。
「ねえ、何なの、その曲」
「知らないの?」
――「知らないの?」と、言うのが、口癖のような男だった。こんな男、波江は死んでも恋人にしたくない。何を聞いても知らないの?と言う。そうして自慢げに、どこか楽しそうに、時に真相を、時にデマを、よどみなくその長い舌先から紡ぎ出すロジカルぽい折原の言い草。
「作詞作曲、折原臨也。引っ越しの曲」
「くだらない」
「そうだね」
ふんふんふん、ふん。彼はまるでくすんだ真鍮(波江はそれを実際に見たことはなかったが、比喩として選びとれる言葉は全て、自分自身が納得出来ればいいのだから問題はない)みたいな顔色をしている、と彼女は思った。
取捨選択に飽き、いくつかの進路をつくりだすにも倦み、年をとるのも疲れてしまったような、人生を生き切ってしまったようなふしぎな達観。波江はわけもなく苛立っている。折原は表向きだけ機嫌がよさそうにふるまっている。でもそんなのはいつものことだ。このオフィスがまともな人間らしい思考に満ちたことは、たぶん創業以来一度だって、ない。
「波江は何考えてるの。今」
珍しく人の意見を聞くじゃないか、と波江は思った。そのことが二人の恒常化した空間に、奇妙な日常との差異を投石していた。夏の盛りに構わず、カーテンもない、ざらつく陽光の入り放題の、冷房だって効いていない室内だ。大きな、この街を一望できるガラスの背丈大の窓は開け放たれていたけれども、それでもそこからは風なんて一筋も入ってこない。誰かがマンションの前に撒いた打ち水からは、この高層の部屋にさえも、むっとするような湿気が運び込まれていた。
力ばかりをむやみに誇示する光と、滞った空気と、蒸すような湿気だけが二人から冷静さを奪ってゆく。
――しかしてぴったりと体のラインに沿うようにつくられた半袖の白いカットソーや、小ぶりだけれども上品なシルバーの、チェーンだけのネックレスが影をつくった肌理の細かな鎖骨や、1200円のストッキングに覆われた彼女の足ばかりがいつまで経っても汗をかいていて、目前に座る七分袖のカットソーの男の肌に水滴みたいなものは一欠片だって認められない。いつだって、自分と世界とは無関係ですよ、というフェイクを保っていたがる男だけれども、こんなところまでその所作を徹底するのはよして欲しいと心底思う。
波江は汗ひとつかいていない折原に、やつあたり半分で言い返す。どうしてこんなにもじりじりとしているのか、波江にはよく分からない。だけれど折原に対面するときに、平穏な気持ちであったことなど数えることしかなかったことに彼女は本当は気がついている。
今日出てゆけば、すべては終わるというこの日にさえも。
「あなたと別れられるのは清々する、ということ」
「そう」
口ずさむ音が、止んでいた。波江のつめが神経質にひっかくシンクの音が、かすかに、虫の羽音にも似た微弱さで彼女らの耳をついている。波江は溜息をついた。折原の喋る口調の音程は、いつもとはまったく変わらない。
これからどうするの、という問いは、互いにとっては必要ではない。このまま道を分かつ二人はたぶん、往来ではもう二度と会わない予感があった。
……若しかしたら、いつか、何十年かずっと先に、道ばたでばったり出くわすことだってあるかもしれない。
見た目の変わっているところがまるで想像できない折原が、波江を見つけて、今までと変わらない速度と音程で彼女の名を呼び、「ところでいい話があるんだけど」などと声がけるシチュエーション。……
だけれどそれについて波江は上手に映像を結べなかったし、すべてが終わった今、ふたりにこの街に留まる理由はほとんどない。さようならなのだ、と波江は思った。さようならの一言を、言うべきだろうか。この男と自分との間にその言葉は本当に適切だろうか。
区切りをつけること。分厚い本の一章を終えること。彼女の人生のどこかしらに甘いべとべとする染みを付けた、彼について語ること。終わらせてしまって、熱い鉄をうったあとみたいに、もう二度とくっつかない断面を手でなぞってその感触を確かめてみること。そのすべてを「思い出」というカテゴリに分類してしまうこと。
「困ったな。波江。俺は生まれてからはじめて、うまく言葉が出てこない状況に陥ってるよ」
「……私もよ。もっとも、あなたにかける言葉なんて最初からないけれど」
「冷たいねえ。俺の秘書は」
「その呼び方は嫌いだわ」
「そう」
会話に困ったら、分かったようにそう、という癖が折原にはあった。そんないくつかの彼という人間に関する特徴を、把握してしまっている自分に波江は気がつく。汗でべたつく長い髪を払いのけて、彼女の方を見ない折原を、対する波江は立ったままずっと見つめている。――虫の羽音のように微弱で耳障りな、シンクをたたくつめさきの音。
「波江」
折原の呼ぶ声に、動揺は見られなかった。平静さはいつものように彼の頭髪からスリッパの履かれた足のつまさきの尖端までを覆い、その無表情じみた笑顔が、壊されるところを波江はまだ見てはいない。
今日初めて、折原が波江の方を向いた。
部屋の中央に座っていた彼は振り向いて、ナンパをする前の男がそうするように女の全身をゆっくりとした目線でうえから下まで検分する。折原は目を細めて、左の口びるの先だけをゆがめて笑った。その笑顔は全然上手なものではなく、ただ、なんとなく皮肉げに笑う、親の愛情をきちんと受けないで育ったおなかを空かせた子どもみたいだ。
予備動作も何もなく、座ったまま、手首だけのスナップで折原から弧を描いて投げられた何かを、波江は咄嗟に左手で受け取る。愛想のないじゃらん、という音が、反響するものもない白い空間にざらつくように響いては消えた。
「ナイスキャッチ」
小指に嵌められた石のついていない華奢な指輪と同じ色をしたそれは、そっ気のないただの鍵である。
だけれど波江はそれに見覚えがあった。鍵の先についたチェスの駒の悪趣味なキーチェーン。クイーンの黒が、てらてらとした質感で波江のことを見つめているような感覚。スペアキーのない、王たる彼しか持っていない、この部屋唯一の鍵だ。
「……どういうつもり?」
「俺はもう要らないから、君にあげる。証書類は台所の包丁入れのところにしまってあるから持っていくといい」
「どうしてそんな悪趣味なところにしまったの」