フェアウェルの羽音
「この部屋には、収納するところなんてもうそれくらいしかないだろう?」
「それにしたって」
あるでしょう、クロゼットとか、台所の小さな地下貯蔵庫とか。
言いかけて、波江はしかし口をつぐむ。こんなときにこんなことで言い争いをするだなんて、なんだかとても、浪費的でくだらないことだ。包丁いれの中に入っているという、書類を確かめてみる気にも彼女はならなかった。その一事象で、彼という人間を紐解く端緒を見つける気分にだってまったくならない。……波江は、いつも困ったときにそうするように溜息を吐いた。「そうすると思った」と微笑しながら折原が言う。把握されている特徴はきっと、把握している彼についての特徴と、同じ数くらいあるのだろう。忌避すべきことに。
「とにかく、要らないわ。私にも」
「持っていかないなら、新しい君の住所に送りつけようか。使う気がないなら売ればいいし、俺はもうここには来ないと約束するよ。永久にね」
「新しい住所なんて知らないでしょうし、言うつもりもないわ」
「君は俺のことを誰だと思ってる?」
「あなたは、もう、情報屋の折原じゃないでしょう」
「そうかな」
「そうよ」
「そうかな」
「臨也」
波江は、最後に、彼の名を呼んだ。情報屋でなくなった、あわれなのか幸福なのかもよくわからない、それでいて終始一貫と「折原臨也」である彼という個体のことを。
言おうか言うまいかについての逡巡は彼女にだってあった。だけれどさようならなのだ、という事象ばかりが、冷静さの厚い衣を同じくまとう、彼女の賢い脳裡を何度もばたばたと往復していたのだった。折原はなんだか、頼りない表情をしている。お気に入りの玩具を買ってもらえなかったような、迷子になったような、子どもみたいな顔を。
「あなたはどうやったって折原臨也からは逃れられないし、情報屋という大義名分を失っても、折原臨也であることは代わりのないことよ」
「……それは、」
「知らなかったでしょう。あなたの知らないことは、世の中にはたくさんあるのよ」
波江の珍しい微かな微笑は、折原に、いつもと同じような印象を与えたろうか。
嫌いだと言い放ってやることは容易かったけれども、今彼女がそれをしなかったのは、折原に対して発生した、ほんのわずかな0.00000001ポイントほどの好意のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。
太陽はよりいっそう、照ることばかりを単直に繰り返しては波江の額の汗を増幅させることに躍起になる。
波江は手持無沙汰に指にひっかけていた、キーホルダーのついたチェーンを静かにもののないキッチンのシンクに置いた。ことん。彼女はここで、何度も彼のために料理をつくってやった。彼のためではなく自分と自分の仕事のために作った料理を、折原はいくつかの賞賛や、批評や、注文をつけながらそれでも残さずきちんと食った。彼と共に食事を摂ったことは、ここに来てからついぞなかったけれども――
陽光ばかりがまぶしかった。折原の姿は逆光になって、もうあまりよく見えない。
彼女はそうして、振りかえらずに部屋を出る。さようならの一言は必要なかったし、何よりも彼女らはふたりとも、まっとうに素直な人間ではなかったのでさようならの文言さえもたぶん上手に口にできない。
再開された、ずいぶんと長いあいだ共にいたひとりの人間の口ずさむ出鱈目な歌が、耳障りな音程で波江の耳朶をかすかに打つ。苛立ちは解消されていた。彼の苛立ちは解消されているだろうか。それを確かめる機会は、波江にはもう永久に来ないだろうけれども。
通い慣れたオフィスの扉を閉めるその直前に、小さな声で、安心していいわと波江は言った。
最後に見た折原臨也は、もう、笑ってはいなかった。
10.0704