裁きは俺が下してやるよ
貴方に罪を犯させるものを切り捨てよ。
風が門と窓を激しく揺らしている。屋敷の前の通りには人の気配なく、厚い雲が垂れ込めて陽光の届かない辺りは、不気味な陰に覆われて昼夜が逆転したようだった。
広い敷地に立派な家を買い与えられた彼は、それが何の思惑によるものかを知っていた。贅沢な居住空間と調度品は慰めにもならず、平穏とは遠く離れてしまった身の上をはじめは嘆いたが、やがてそれにも飽きた。
悪態をついてもそれを吐きかけるべき相手は目の前にいない。実りのない無駄な時間がただ過ぎゆく。彼は諦めを覚えた。籠の内側にしか存在が許されぬならこの小さな世界を愛してやろうと──もはやそれが前向きな考えなのかどうかも判断がつかなくなった、麻痺してしまった感覚で彼なりに、手元にあるものを吟味していった。
価値あるものは、己だけだった。身の回りの世話をする使用人の顔は能面のようで、話し相手にするにも、交わす言葉は空虚。まともに触れ合えるのは、アンティーク的評価ばかり高い、長く調律されず音の外れた黒いピアノばかりだ。
音感を頼りに、正確な音を探って鍵盤を叩きながら、彼はよく嘆きの唄を口ずさんだ。しっとりとした静かな声を、物言わぬ壁と家具だけが聞いていた。使用人達にはもののあわれを解する心は亡く、まるで人形だ。彼等は、彼等の雇主の言い付け通りの仕事を、ただ機械的にこなすだけなのだ。せめてこの空しさを話せる相手がいたならば、いくらかは塞いだ気持ちも晴れるだろうに、それは望むだけ無駄な事のように思われた。
それは、入梅の気配を膚に感じた頃だった。彼は、毎日のようにしとしとと降る雨を硝子越しに眺めては、…父があの者達に嬲り殺されたのは、二年前の今頃だった…、と思い出していた。
やはりその日も、くすんだ曇天を見上げ、今にも雨が降り出しそうだと、考えていたが──ふと、庭先に視線を落とした時に、目の覚めるような、鮮やかな色を捉らえた。彼は、屋敷に幽閉されて以来、久しく感じていなかった高揚を感じて、つい、庭に面したベランダに出て、ふらりと外へ足を向けた。
触れたら暖かそうなその色は、草叢の中にあって、覚束ない動きを見せた…よく見ればそれは、人の頭髪だった。
彼は、突然愉快になって、逃げるように緑陰に紛れようとするその色を追った。自分の庭を歩く彼は、足音を忍ばせはしなかったので、その奇妙な侵入者も、たちまちに自分が追われている事を察した。
その男は、潔く歩を緩め、やがて足を止めた。彼は男に追い付くと、手を伸ばしてその肩を掴んだ。強引に振り返らせた男は、思っていたよりも若く、恐らくは、自分と同じくらいの年頃だろうと、彼は見当をつけた。
男の顔立ちは、どちらかといえば整っていたが、どこと無く漂う愛嬌が、その容貌を喜劇的に見せていた。しかしその瞳には、尋常ならざる鋭い輝きが宿っていた。それを彼は、美しい。と思った。余程の観察眼がなければ気付けもしないような、隠微なものを見抜いた、彼はその発見を内心喜んだが、表に出しはしない。
「お前は、誰だ」
高慢な彼の態度とそれ故の不躾な問いは、普通ならば不愉快に感じられるものだったが、男はそれを好ましいものと思った。そしてその物言いだけで、彼に流れる高貴な血と、気品を読み取った。貴族の家に生まれ、自らの血を厭って家を出た、同郷の友に似ていると、考えもした。
「俺は、1059番。元々は違う名前があったけど、忘れた。仲間うちでは、番号を縮めて【せんごく】と呼ばれていたよ」
ねめつけるような彼の視線にも怯まず、まじまじと見つめ返し、やがてそんな風に名乗ると、せんごくは、春の木漏れ日のような笑みを零した。それを彼は、おもしろい。と感じた。目の前でへらへらと笑うその男の、また違った表情も見てみたい──と欲した。この男ならば、退屈でしかない日々を、鮮やかに塗り変えてくれるのではないかと期待したのだ。
「高貴な人。よろしければ、君の名前も教えてくれませんか」
せんごくの服は、粗末で、しかも土や砂埃で汚れ、破れたり、裾がほつれたりしていた。一目で、まともな身分の者ではないと知れる…しかし彼は、せんごくの振る舞いや言葉遣いに、それなりの品を感じた。元は、自分と同じか、あるいはそれ以上の地位のある家柄に生まれたのではないかと。またそれが、どういった事情でここまで身を落とし、今、滅多に人が訪れぬ辺境までやってきたのか、気になった。
「跡部景吾だ。」
彼は、一年前に葬った、都の墓地の墓石に刻まれた自分の名を、本当に久しぶりに口にした。
跡部景吾は、伯爵家の長男だった。何不自由ない幸福な幼年時代を過ごしたが、まだ学校に行かぬうちに母親が病に倒れ、やがて亡くなってからは、全ての歯車が狂ってしまった。
七歳の頃、父が迎えた後妻の親類に、意地汚い者がいて、甘言を弄して父に取り入ると、後は毒をもってじっくり時間をかけて死に至らしめた。それから親類達は跡部を手なずけようとしたが、彼がどうあってもなびかないと知ると、その存在を抹殺した。まだ少年に過ぎない跡部には後ろ楯もなく、言いなりとなって、こんな寂れた場所で隠棲し、じっと耐え忍ぶしかなかった。
そんな跡部にとって、せんごくは、はじめて遭遇する「未知」だった。愚かな振りをして、中々に賢しく、明朗な雰囲気を持ちながら、どこか底の知れぬ闇を抱えているようでもあり、穏やかさの中に、時々垣間見せる烈しさや、普段は優しい目元に、不意に感じる冷たさは、不可解なものとして、跡部の目に移っていた。
せんごくは、跡部の機嫌に関わらずその話を楽しげに聞いていたが、自分の事を話すのは嫌っていた。時折跡部が尋ねても、曖昧に微笑んではぐらかすのだ。はじめのうちはそれを容認していた跡部だが、親睦を深めるうちに、その事が我慢ならなくなった。自分は、せんごくに己の身の上や、生活の愚痴を洗いざらいぶちまけてしまっているのに、はたと気付けば自分はせんごくの事は何も知らない。それが跡部には腹立たしく、悔しいことだった。
「お前は一体何者だ。どこから来た?」
雨が雪に変わる頃に、跡部は自室にせんごくを呼び付けて、尋ねた。それがごまかしを許さない厳しい詰問だとわかると、せんごくはあっさりと両手を上げて、降参した。そうして跡部は、教えてもらえなかった世の中の仕組みの事を、得体の知れないその男の口から、はじめて知らされた。
跡部の生まれた帝国は、大陸全土の八割を支配していたが、残りの二割を占める王国が、せんごくの故郷だった。王国は、長い間帝国に刃向かうことなく、追従する事で、永く平穏を保ってきた。その王を、貴族出身の若者が、臆病者の腰抜けと罵り、反乱を起こした。その若者が、亜久津仁といった。群れる事を嫌う彼は、孤立無援だった。だが、平和ボケした王国の兵は、彼一人の手で次々と倒されていき、遂には、王その人を追い詰めた。亜久津は、王の顔を見て驚いた。玉座に座る男はまだ若く、かつて、お節介な学友として、付き合いのあった者だった。南健太郎、というのが、王の名だった。
風が門と窓を激しく揺らしている。屋敷の前の通りには人の気配なく、厚い雲が垂れ込めて陽光の届かない辺りは、不気味な陰に覆われて昼夜が逆転したようだった。
広い敷地に立派な家を買い与えられた彼は、それが何の思惑によるものかを知っていた。贅沢な居住空間と調度品は慰めにもならず、平穏とは遠く離れてしまった身の上をはじめは嘆いたが、やがてそれにも飽きた。
悪態をついてもそれを吐きかけるべき相手は目の前にいない。実りのない無駄な時間がただ過ぎゆく。彼は諦めを覚えた。籠の内側にしか存在が許されぬならこの小さな世界を愛してやろうと──もはやそれが前向きな考えなのかどうかも判断がつかなくなった、麻痺してしまった感覚で彼なりに、手元にあるものを吟味していった。
価値あるものは、己だけだった。身の回りの世話をする使用人の顔は能面のようで、話し相手にするにも、交わす言葉は空虚。まともに触れ合えるのは、アンティーク的評価ばかり高い、長く調律されず音の外れた黒いピアノばかりだ。
音感を頼りに、正確な音を探って鍵盤を叩きながら、彼はよく嘆きの唄を口ずさんだ。しっとりとした静かな声を、物言わぬ壁と家具だけが聞いていた。使用人達にはもののあわれを解する心は亡く、まるで人形だ。彼等は、彼等の雇主の言い付け通りの仕事を、ただ機械的にこなすだけなのだ。せめてこの空しさを話せる相手がいたならば、いくらかは塞いだ気持ちも晴れるだろうに、それは望むだけ無駄な事のように思われた。
それは、入梅の気配を膚に感じた頃だった。彼は、毎日のようにしとしとと降る雨を硝子越しに眺めては、…父があの者達に嬲り殺されたのは、二年前の今頃だった…、と思い出していた。
やはりその日も、くすんだ曇天を見上げ、今にも雨が降り出しそうだと、考えていたが──ふと、庭先に視線を落とした時に、目の覚めるような、鮮やかな色を捉らえた。彼は、屋敷に幽閉されて以来、久しく感じていなかった高揚を感じて、つい、庭に面したベランダに出て、ふらりと外へ足を向けた。
触れたら暖かそうなその色は、草叢の中にあって、覚束ない動きを見せた…よく見ればそれは、人の頭髪だった。
彼は、突然愉快になって、逃げるように緑陰に紛れようとするその色を追った。自分の庭を歩く彼は、足音を忍ばせはしなかったので、その奇妙な侵入者も、たちまちに自分が追われている事を察した。
その男は、潔く歩を緩め、やがて足を止めた。彼は男に追い付くと、手を伸ばしてその肩を掴んだ。強引に振り返らせた男は、思っていたよりも若く、恐らくは、自分と同じくらいの年頃だろうと、彼は見当をつけた。
男の顔立ちは、どちらかといえば整っていたが、どこと無く漂う愛嬌が、その容貌を喜劇的に見せていた。しかしその瞳には、尋常ならざる鋭い輝きが宿っていた。それを彼は、美しい。と思った。余程の観察眼がなければ気付けもしないような、隠微なものを見抜いた、彼はその発見を内心喜んだが、表に出しはしない。
「お前は、誰だ」
高慢な彼の態度とそれ故の不躾な問いは、普通ならば不愉快に感じられるものだったが、男はそれを好ましいものと思った。そしてその物言いだけで、彼に流れる高貴な血と、気品を読み取った。貴族の家に生まれ、自らの血を厭って家を出た、同郷の友に似ていると、考えもした。
「俺は、1059番。元々は違う名前があったけど、忘れた。仲間うちでは、番号を縮めて【せんごく】と呼ばれていたよ」
ねめつけるような彼の視線にも怯まず、まじまじと見つめ返し、やがてそんな風に名乗ると、せんごくは、春の木漏れ日のような笑みを零した。それを彼は、おもしろい。と感じた。目の前でへらへらと笑うその男の、また違った表情も見てみたい──と欲した。この男ならば、退屈でしかない日々を、鮮やかに塗り変えてくれるのではないかと期待したのだ。
「高貴な人。よろしければ、君の名前も教えてくれませんか」
せんごくの服は、粗末で、しかも土や砂埃で汚れ、破れたり、裾がほつれたりしていた。一目で、まともな身分の者ではないと知れる…しかし彼は、せんごくの振る舞いや言葉遣いに、それなりの品を感じた。元は、自分と同じか、あるいはそれ以上の地位のある家柄に生まれたのではないかと。またそれが、どういった事情でここまで身を落とし、今、滅多に人が訪れぬ辺境までやってきたのか、気になった。
「跡部景吾だ。」
彼は、一年前に葬った、都の墓地の墓石に刻まれた自分の名を、本当に久しぶりに口にした。
跡部景吾は、伯爵家の長男だった。何不自由ない幸福な幼年時代を過ごしたが、まだ学校に行かぬうちに母親が病に倒れ、やがて亡くなってからは、全ての歯車が狂ってしまった。
七歳の頃、父が迎えた後妻の親類に、意地汚い者がいて、甘言を弄して父に取り入ると、後は毒をもってじっくり時間をかけて死に至らしめた。それから親類達は跡部を手なずけようとしたが、彼がどうあってもなびかないと知ると、その存在を抹殺した。まだ少年に過ぎない跡部には後ろ楯もなく、言いなりとなって、こんな寂れた場所で隠棲し、じっと耐え忍ぶしかなかった。
そんな跡部にとって、せんごくは、はじめて遭遇する「未知」だった。愚かな振りをして、中々に賢しく、明朗な雰囲気を持ちながら、どこか底の知れぬ闇を抱えているようでもあり、穏やかさの中に、時々垣間見せる烈しさや、普段は優しい目元に、不意に感じる冷たさは、不可解なものとして、跡部の目に移っていた。
せんごくは、跡部の機嫌に関わらずその話を楽しげに聞いていたが、自分の事を話すのは嫌っていた。時折跡部が尋ねても、曖昧に微笑んではぐらかすのだ。はじめのうちはそれを容認していた跡部だが、親睦を深めるうちに、その事が我慢ならなくなった。自分は、せんごくに己の身の上や、生活の愚痴を洗いざらいぶちまけてしまっているのに、はたと気付けば自分はせんごくの事は何も知らない。それが跡部には腹立たしく、悔しいことだった。
「お前は一体何者だ。どこから来た?」
雨が雪に変わる頃に、跡部は自室にせんごくを呼び付けて、尋ねた。それがごまかしを許さない厳しい詰問だとわかると、せんごくはあっさりと両手を上げて、降参した。そうして跡部は、教えてもらえなかった世の中の仕組みの事を、得体の知れないその男の口から、はじめて知らされた。
跡部の生まれた帝国は、大陸全土の八割を支配していたが、残りの二割を占める王国が、せんごくの故郷だった。王国は、長い間帝国に刃向かうことなく、追従する事で、永く平穏を保ってきた。その王を、貴族出身の若者が、臆病者の腰抜けと罵り、反乱を起こした。その若者が、亜久津仁といった。群れる事を嫌う彼は、孤立無援だった。だが、平和ボケした王国の兵は、彼一人の手で次々と倒されていき、遂には、王その人を追い詰めた。亜久津は、王の顔を見て驚いた。玉座に座る男はまだ若く、かつて、お節介な学友として、付き合いのあった者だった。南健太郎、というのが、王の名だった。
作品名:裁きは俺が下してやるよ 作家名:_ 消