手
手
辺りはシンと静まり返っている。
新月で月の光はなく、辺りは真っ暗だ。
物音一つ立たなそうなそんな夜。
が……
───赤が飛び散った。
ビチャ
嫌な音とともに頬に赤いものがつく。
ツン。とその液体の鉄のような強烈な匂いが鼻につき、思わず眉を顰める。
手応えは、思ったほど感じられなかった。
いつも硬い魔物を相手にしているからだろうか。
だが確かに、魔物を切るのとは違う感覚がそこにはあった。
赤い色の男が橋から落ちていく…。
そんな光景を、オレは冷たい目で見送った…
──────────
宿屋の前。そこにオレの相棒がいた。
「…ラピード、どう……。」
どうかしたか?と言う言葉は最後まで言えなかった。
いや、言えなくなったと言ったほうが正しいだろうか。
その真っ直ぐなラピードの視線が、すごく痛かった。
ラピードが何を言いたいのか…
そんなことは考えなくても…オレには理解できた。
ラピードは知っている。
今さっき、オレのした事を……
ラピードは、知っている。
オレはそんなラピードの視線に耐える事ができず、宿の中に入ろうとした。
ドアノブに手をかけようとしたときだった。
「────っ!!」
赤が見えた。
思わずその手を止める。
そして、自分の手の平を見る。
「………!」
そこには、洗ったはずの赤い液体がベットリと付いていた。
驚きで息をのむ。
まだ、驚きで何が起きているのかは、分からなかった。
ラピードの方を見る。
「……。」
ラピードは何も言わず、オレと一度目を合わせると、うずくまって目を閉じた。
もう一度自分の手をみたが、今度は何もなかった。
(………オレも今日はもう休もう……)
そう思って、ドアを開け中に入った。
辺りはまた静かに、その時を保っていた。
──────────
─────迷いはなかった。
動揺も恐怖も、後悔すらなかった……。
自分が何をするのか、分かっていた。
それを受け入れる覚悟もできていた。
…だけど………
一つだけ………
──────────
「ねぇ〜、まだこの山越えられないの〜?おっさん、もうヘロヘロよ〜。」
「うっさいわね。グダグダいってないで、足動かしなさいよ。」
レイヴンの言葉に、いつも通りリタが素早く反応。
これがあるうちは、まだ平気であると解釈しても平気だ。
「リタっちひど〜い。老体には、こーゆー山はキツイのよ〜。」
「あら?まだお若くいらっしゃってよ。おじ様。頑張って。」
「ジュデスちゃんに応援されたら、おっさん、頑張っちゃうよ!」
「頂上までいったら、後はあっという間だから、その調子でがんばって。レイヴン。」
「ヤローに応援されても、おっさん、うれしくないよ。」
「…レイヴンだけ、今日のご飯、抜きだから。」
「冗談だって少年!!本気にしないでよ〜。」
こんな楽しげな会話で、辛い山道を進んでいく。
でなければ、この高い山を越えていくのは無理であろう。
楽しげに振舞っていれば、辛いことを忘れる。
だから、みんな明るいのであろう。
足元に無造作に転がる石に、足を取られないよう気を付けながら、
正規の道ではない道を通って行く。
設備も何もされていないので、非常に困難な獣道を歩いていく。
目的地に早く着くためには、この山を越えなければならない。
仕方ない事だと分かっているから、誰一人として文句は言わない。
──────────
しばらく進むと自然に作られた大きな岩の段差が見えた。
早歩きをして、他のメンバーよりも先にその段差を飛び降りる。
下からまだ降りて来ていない、エステル達の方を見る。
高さは2・3メートルほどある。
「こりゃ、エステル達には、ちょっとキツイか。」
そう呟く。
自分やジュディス達が降りるのは、問題はないだろう。
がこの高さになると、エステルやリタが降りるには少々厳しいだろう。
案の定、大きな段差を目にして、しゃがみこみ戸惑っているエステルの姿があった。
********************
(高い…。)
私の第一感想はこれだった。
(どうしよう。この高さは少し……。)
そんな事を考えている時、
「ほら、手貸してやるから、しっかり掴まれよ。」
困っていた私に、ユーリは手を差し伸べてくれた。
伸ばされた手は、剣を日常振るっているせいか、
自分よりもずっと大きくて、しっかりしていた。
長い髪と整った顔をしているので、女性とも取られがちだが、
差し伸べられた手を見て、改めて男の人なんだ、と思う。
ここで私はユーリの言葉の返事をしていない事に気付き、
「あ、はい!」
急いで返事をした。
───最近になってよく思うことがある。
私は、この人と手を繋ぐ事が好きなんだと。
とてもクール彼だが、胸の内の隠された暖かい感情を、手は隠さない。
握ればしっかりと、その感情を伝えてくれる彼の手が、
誰よりも強くて、誰よりも大きくて、大好きだった。
だけど、滅多に手を繋ぐ機会なんかなくて、とても残念だった。
かと言って自分から『手を繋いでもいいです?』なんて、言えなくて……
だから、この偶然に感謝しないと。
そう思って、彼の手を握ろうとした。
********************
自分の手をエステルに伸ばした時だった。
「────っ!!」
───赤が見えた。
あわてて、自分の手を引っ込める。
「……っ」
「…ユー、リ?」
中途半端な所でユーリが手を引っ込めた事に、エステルは首をかしげる。
ユーリは自分の手を見たまま動こうとしない。
「どうしたんです?…ユーリ?」
もはや、そのエステル声もユーリには聞こえていない。
(……駄目だ…)
こんな手で……彼女に触れるなんて、オレには出来い。
こんな、真っ赤に染まった手で………
先程までは、何ともなかったはずなのに。
自分の目がおかしいのだろうか?
常に剣を携える指先が、手の甲が、手の平が…
すべてが赤い色に染まっている。
(そうか、この赤い血が……)
自分の罪の形。
自分だけが背負っていく罪なのだと。
ユーリは理解する。
こんな状態で彼女に触れれば、間違いなく彼女の細く白い手まで、
赤く染めてしまうだろう……。
(……そんなの嫌だ。)
罪を犯したのはあくまで自分であって、彼女には全く関係のない事。
そんな彼女を罪で汚すなんて…出来ない。
(こんな、血で汚れた手など……)
この場に川があったなら、すぐにこれを洗い流そうとしただろう。
だけど、それをしてもこの赤は決して消えることはない。
なぜなら、これが自分にしか見えない"罪"という鎖なのであるから。