月蝕ノ怪異
月蝕ノ怪異
「やぁ帝人君、久しぶりだね」
其の声を聞き、帝人は己の爪先へ拘束していた眼を久しぶりに空へ解放する。其れから声のした方を向き、声の主を確認した。黒のジャケット、黒い服に、艶のある黒髪。夜の帳の降りた西口公園、其の中を歩いてくる男は、まるで闇を纏っているようで、街の灯りにぼんやりと白い肌だけがやけに浮いて見えた。
「お久しぶりです、臨也さん」
帝人は近付いてくる男に返事をすると、少し頭を下げた。
「待たせて悪かったね、ちょっと面倒臭い奴に捕まってさぁ……」
そう云うと、臨也は着ているジャケットの裾を、ぱんぱんと手で払った。
静雄さん、……だろうか、と思ったが、帝人は黙って曖昧な笑みを浮かべるだけにする。友人の正臣が以前、臨也と静雄の追いかけっこは池袋じゃ恒例行事みたいなものだと云っていたのを、帝人は憶えていた。其れに、静雄の名前を出すと、臨也は極端に厭な顔をするし、「如何やってシズちゃんを殺そうか」といった物騒な発言をし始める。其れは帝人にとって面倒なことであり、何より怖い。大抵、巫山戯た調子で云うのだが、臨也ならやりかねない。おまけに静雄の話をする時の臨也の眼は、心の底からひやりとするほど、凍てつくような光を湛える。其れが、帝人は酷く怖い。
触らぬ神に祟りなし、胸の内で呟き、帝人は話題を逸らす。
「……なんか、会うのは久しぶりですけど、変な感じですね」
そう云えば、「あぁ、ほぼ毎晩のように会ってるからねぇ、ネット上で」と臨也は笑う。街灯にぼんやりと浮かぶ其の姿は、都会にしっくりと馴染んでいる。背もまぁまぁあって、細身で、男性としては充分綺麗な顔をしている。
……斯ういう人が所謂イケメン、なんだろうなぁ。そう胸の内でこぼすと、帝人は何だか自分が、未だ垢抜けずに田舎臭さを漂わせているような気がして、身をそわそわさせた。そんな帝人の様子に気が付いたのか、「如何かした?」と臨也が訊ねて来る。其の問いにびくりと身体を震わせると、帝人は、何でもないですと首を振った。
「美しさって、何だと思う?」
一通り話をした後、突然臨也がそんなことを口にした。脈絡もない問いに帝人は戸惑う。臨也が如何してそんな事を云い出したのか、一体どんな意図が其処に横たわっているのか、其れが分からず、帝人は「美しさ……、ですか?」と聞き返した。
「そう、美しさ。人によって何が美しいと感じるかは違うだろう。知りたいんだ、他人の美観を」
そう云うと、臨也は眼の前を行き交う人々に眼をやる。其れから其の中の一人を指差し、君が如何思うか知らないけど彼女は美しくない、と随分と失礼なことを口にした。帝人は慌てて指差している臨也の指を自分の手で覆うと、何ですか急にっ、と抗議する。とばっちりを喰らうのは御免だった。そんな帝人に、あぁごめん、と云い、臨也は悪びれた様子もなく面白がるように笑う。其れを見て、正臣がよく云う「あの人には関わるなよ」と云う言葉が身に沁みて感じられ、帝人は小さく溜息を吐いた。
「ねぇ、君は如何思う?」
帝人の様子もお構いなしに、臨也は話を続ける気が満々の様子。仕方なく、「……よく分かりません、考えたこともなかったから」と帝人は返事をする。すると臨也は、ふうん、と何か考え込むように云うと、口を開く。
「或る人は、若さを美しさと云う。確かに、しわしわの婆さんより若い女性の方がいいかも知れないね。でも、或る人は強さを美しさと云う。アスリートなんかがそうなんだろうね。他には対称性や、人の直向きさなんかが、一般的に美しいってされている」
そう云う臨也に、帝人は頷いて見せる。其れを確認すると、臨也は満足そうに眼を細めた。
「其処で、其れらの共通点を考えてみて? 若さ、強さ、対称性に直向きさ……。一体何が共通しているか」
「あ、……えーっと、共通点。何だろう」
面白そうな顔でじっと見て来る臨也に、やや顔を赤くしながら、帝人は暫く悩んでみたが、全く思いつかない。性質の悪い謎々をやっている気分だ。けれど嫌な気はしない。幼い頃、正臣と二人で謎々を出し合いっこをしていた時に似た空気が、其処に佇んでいた。
「ねぇ、正臣。美しさって、如何いうことだと思う?」
学校帰り、ファミレスで近付いてきた定期考査に向けて勉強している最中、帝人はふと先日のことを思い出し、眼の前に座る正臣に問いかける。
正臣はもう勉強に飽きてしまったらしく、先程から何度もドリンクバーに足を運んだり、携帯をいじったり、店内にいる女の子を物色していた。
「なぁんだぁ? いきなり……。ははぁ、さては帝人ぉー、俺と杏里の魅力について語り合いたいのかー? よし、受けて立とう! 此の紀田正臣、ナンパで培ったボキャブラリー、とくとご覧に入れて見せようぞっ」
「……はいはい、目立つから落ち着いてね」
「其れは無理だ、天知る地知る子知る、もっと目立てと風が囁くっ!」
「相も変わらず√3点。僕は真面目に聞いてるんだよ。もういいや、早く勉強しなよ、全然やってないじゃないか」
真面目に話をしようとして、けれど正臣に何時ものように茶化されてしまい、帝人はうんざりして溜息を吐く。
其れは何時ものことなのだが、斯う頻繁に茶化されたりするのは、帝人にとってあまり気分のいいものではない。正臣に腹が立つというより、何時も何だかんだで流されやすい自分がやや腹立たしく思えるからだ。
如何して斯う何でも有耶無耶にしちゃうかなっ……。胸の裡で自身に付いてそうこぼしていると、みっかどー? と云う声と共に、眼の前に正臣がずいと顔を出した。
「うわぁっ! 近いっ、近いって!」
帝人は目の前に迫った正臣に驚くと、悲鳴に近い声をあげて其の顔を手の平で押し返す。押し返され、浮かせていた腰を椅子に下ろすと、正臣はやや赤くなった鼻を押さえながら、「ごめん、悪かったよ」と帝人に詫びた。其れから、「で、何だっけ? 美しさは何かって話だっけ?」と云うと、手元にあるメロンソーダを一口飲んだ。
其れは随分と難しい話だ。そう云うと、正臣は腕組をして眉根を顰めた。
「んー、綺麗って置き換えてもいいか。そうだなぁ、冬の澄んだ夜の空とか綺麗だと思う。あと、桜が散ってる時? でも其れが何かって云われるとうまく説明できねぇな」
そう云い、「あ、杏里もね、帝人くぅーん」と付け足すと、正臣はしてやったりの顔で笑った。
如何していちいち園原さんの名前を出すかなぁ……。そうは思うけれど、口に出すのも面倒で、帝人は一つ溜息を吐く。其れから、やっぱりあの人普通じゃないな、と先日のことを思い出し始めた。
――俺はね、美しさの本質は『果敢無さ』だと思うんだ。
あの日、夜の西口公園で、臨也はそう云っていた。
若さも強さも、対称性も人の直向きさも、全ては一時的なものにすぎない。若さも強さも老いにつれて衰える。対称性は少しでも欠ければ崩れる砂の城であり、人の直向きさなども、ずっとは続かない。人間の精神とは、異常と正常の境界線の上で片足立ちしているようなものであるし、其れこそ死んでしまえばお仕舞い。全ては、一過性の果敢無い事象にすぎない。
だから美しさと云うのは果敢無さであり、人は其処へ惹かれるのではないか。
其れが臨也の考えだった。
「やぁ帝人君、久しぶりだね」
其の声を聞き、帝人は己の爪先へ拘束していた眼を久しぶりに空へ解放する。其れから声のした方を向き、声の主を確認した。黒のジャケット、黒い服に、艶のある黒髪。夜の帳の降りた西口公園、其の中を歩いてくる男は、まるで闇を纏っているようで、街の灯りにぼんやりと白い肌だけがやけに浮いて見えた。
「お久しぶりです、臨也さん」
帝人は近付いてくる男に返事をすると、少し頭を下げた。
「待たせて悪かったね、ちょっと面倒臭い奴に捕まってさぁ……」
そう云うと、臨也は着ているジャケットの裾を、ぱんぱんと手で払った。
静雄さん、……だろうか、と思ったが、帝人は黙って曖昧な笑みを浮かべるだけにする。友人の正臣が以前、臨也と静雄の追いかけっこは池袋じゃ恒例行事みたいなものだと云っていたのを、帝人は憶えていた。其れに、静雄の名前を出すと、臨也は極端に厭な顔をするし、「如何やってシズちゃんを殺そうか」といった物騒な発言をし始める。其れは帝人にとって面倒なことであり、何より怖い。大抵、巫山戯た調子で云うのだが、臨也ならやりかねない。おまけに静雄の話をする時の臨也の眼は、心の底からひやりとするほど、凍てつくような光を湛える。其れが、帝人は酷く怖い。
触らぬ神に祟りなし、胸の内で呟き、帝人は話題を逸らす。
「……なんか、会うのは久しぶりですけど、変な感じですね」
そう云えば、「あぁ、ほぼ毎晩のように会ってるからねぇ、ネット上で」と臨也は笑う。街灯にぼんやりと浮かぶ其の姿は、都会にしっくりと馴染んでいる。背もまぁまぁあって、細身で、男性としては充分綺麗な顔をしている。
……斯ういう人が所謂イケメン、なんだろうなぁ。そう胸の内でこぼすと、帝人は何だか自分が、未だ垢抜けずに田舎臭さを漂わせているような気がして、身をそわそわさせた。そんな帝人の様子に気が付いたのか、「如何かした?」と臨也が訊ねて来る。其の問いにびくりと身体を震わせると、帝人は、何でもないですと首を振った。
「美しさって、何だと思う?」
一通り話をした後、突然臨也がそんなことを口にした。脈絡もない問いに帝人は戸惑う。臨也が如何してそんな事を云い出したのか、一体どんな意図が其処に横たわっているのか、其れが分からず、帝人は「美しさ……、ですか?」と聞き返した。
「そう、美しさ。人によって何が美しいと感じるかは違うだろう。知りたいんだ、他人の美観を」
そう云うと、臨也は眼の前を行き交う人々に眼をやる。其れから其の中の一人を指差し、君が如何思うか知らないけど彼女は美しくない、と随分と失礼なことを口にした。帝人は慌てて指差している臨也の指を自分の手で覆うと、何ですか急にっ、と抗議する。とばっちりを喰らうのは御免だった。そんな帝人に、あぁごめん、と云い、臨也は悪びれた様子もなく面白がるように笑う。其れを見て、正臣がよく云う「あの人には関わるなよ」と云う言葉が身に沁みて感じられ、帝人は小さく溜息を吐いた。
「ねぇ、君は如何思う?」
帝人の様子もお構いなしに、臨也は話を続ける気が満々の様子。仕方なく、「……よく分かりません、考えたこともなかったから」と帝人は返事をする。すると臨也は、ふうん、と何か考え込むように云うと、口を開く。
「或る人は、若さを美しさと云う。確かに、しわしわの婆さんより若い女性の方がいいかも知れないね。でも、或る人は強さを美しさと云う。アスリートなんかがそうなんだろうね。他には対称性や、人の直向きさなんかが、一般的に美しいってされている」
そう云う臨也に、帝人は頷いて見せる。其れを確認すると、臨也は満足そうに眼を細めた。
「其処で、其れらの共通点を考えてみて? 若さ、強さ、対称性に直向きさ……。一体何が共通しているか」
「あ、……えーっと、共通点。何だろう」
面白そうな顔でじっと見て来る臨也に、やや顔を赤くしながら、帝人は暫く悩んでみたが、全く思いつかない。性質の悪い謎々をやっている気分だ。けれど嫌な気はしない。幼い頃、正臣と二人で謎々を出し合いっこをしていた時に似た空気が、其処に佇んでいた。
「ねぇ、正臣。美しさって、如何いうことだと思う?」
学校帰り、ファミレスで近付いてきた定期考査に向けて勉強している最中、帝人はふと先日のことを思い出し、眼の前に座る正臣に問いかける。
正臣はもう勉強に飽きてしまったらしく、先程から何度もドリンクバーに足を運んだり、携帯をいじったり、店内にいる女の子を物色していた。
「なぁんだぁ? いきなり……。ははぁ、さては帝人ぉー、俺と杏里の魅力について語り合いたいのかー? よし、受けて立とう! 此の紀田正臣、ナンパで培ったボキャブラリー、とくとご覧に入れて見せようぞっ」
「……はいはい、目立つから落ち着いてね」
「其れは無理だ、天知る地知る子知る、もっと目立てと風が囁くっ!」
「相も変わらず√3点。僕は真面目に聞いてるんだよ。もういいや、早く勉強しなよ、全然やってないじゃないか」
真面目に話をしようとして、けれど正臣に何時ものように茶化されてしまい、帝人はうんざりして溜息を吐く。
其れは何時ものことなのだが、斯う頻繁に茶化されたりするのは、帝人にとってあまり気分のいいものではない。正臣に腹が立つというより、何時も何だかんだで流されやすい自分がやや腹立たしく思えるからだ。
如何して斯う何でも有耶無耶にしちゃうかなっ……。胸の裡で自身に付いてそうこぼしていると、みっかどー? と云う声と共に、眼の前に正臣がずいと顔を出した。
「うわぁっ! 近いっ、近いって!」
帝人は目の前に迫った正臣に驚くと、悲鳴に近い声をあげて其の顔を手の平で押し返す。押し返され、浮かせていた腰を椅子に下ろすと、正臣はやや赤くなった鼻を押さえながら、「ごめん、悪かったよ」と帝人に詫びた。其れから、「で、何だっけ? 美しさは何かって話だっけ?」と云うと、手元にあるメロンソーダを一口飲んだ。
其れは随分と難しい話だ。そう云うと、正臣は腕組をして眉根を顰めた。
「んー、綺麗って置き換えてもいいか。そうだなぁ、冬の澄んだ夜の空とか綺麗だと思う。あと、桜が散ってる時? でも其れが何かって云われるとうまく説明できねぇな」
そう云い、「あ、杏里もね、帝人くぅーん」と付け足すと、正臣はしてやったりの顔で笑った。
如何していちいち園原さんの名前を出すかなぁ……。そうは思うけれど、口に出すのも面倒で、帝人は一つ溜息を吐く。其れから、やっぱりあの人普通じゃないな、と先日のことを思い出し始めた。
――俺はね、美しさの本質は『果敢無さ』だと思うんだ。
あの日、夜の西口公園で、臨也はそう云っていた。
若さも強さも、対称性も人の直向きさも、全ては一時的なものにすぎない。若さも強さも老いにつれて衰える。対称性は少しでも欠ければ崩れる砂の城であり、人の直向きさなども、ずっとは続かない。人間の精神とは、異常と正常の境界線の上で片足立ちしているようなものであるし、其れこそ死んでしまえばお仕舞い。全ては、一過性の果敢無い事象にすぎない。
だから美しさと云うのは果敢無さであり、人は其処へ惹かれるのではないか。
其れが臨也の考えだった。