月蝕ノ怪異
月食の始まる時刻と食の最大を迎える時刻を確認すると、其れまでに色々片付けてしまおう、と帝人は気合を入れる。週の後半溜め込んでしまった洗濯物を洗い、部屋や水回りの掃除をした。
其れらが済んで、ふぅと一息ついていると、携帯が鳴った。ディスプレイには、『紀田正臣』とある。帝人は飲んでいたペットボトルを机に置くと、急いで電話を取った。
「もしもし、正臣。如何した?」
「如何したじゃないだろ? 昨日の夜電話したのに出なかったから掛け直したんだよ」
少し不機嫌そうな其れに、帝人は「……あっ」と声を洩らした。昨日の夜、帝人は着信履歴に正臣の名前があったことに気が付いたが、其の儘掛け直すのを忘れていたのだった。
「『あっ』てお前なぁ。……酷い、酷いわぁー帝人くぅん! 親友のことを忘れちゃうだなんてっ」
巫山戯た調子で云う正臣に、帝人は「ごめん、でもキモイ……」と正直に謝って正直に批判する。其れにやや不満そうに「マジで酷ぇな、おまえ」とぼそりというと、正臣は用件を口にする。其れは月曜日の放課後、杏里を誘って三人でボーリングに行こう、と云うものだった。
何時も突然誘いをする癖に一体如何いう風の吹き回しだろうと帝人は不思議に思ったが、正臣が云うには、突然だと杏里が何時も断るから、ということらしい。
其れに納得し、帝人が了承の旨を伝えると、正臣が、そう云えば、と口を利く。
「帝人ぉ、お前昨日誰と会ってたんだ?」
其の言葉に、帝人はどきりとした。ちょっと前に、臨也とは関わるな、と正臣に云われたばかり、まさか臨也に会っていたとは云えない。
「……うん、ちょっとね」
仕方なく、帝人は言葉を濁した。けれど、勘の良い正臣には分かってしまう。
もしかして、またあの人に会ったのか……? そう云う正臣に、帝人は何も云えない。
「……なぁ、帝人。俺は心配なんだ。危ない目に会ってからじゃ遅ぇんだよ。あの人は裏で色々なことやってるんだ。関わったら何時巻き込まれるか分かったもんじゃない」
――もう、あの人には会うなよ。
正臣はそう云うと黙ってしまった。未だ帝人は何も云えない。二人を繋ぐ電波は、ただ離れた空間を繋げているだけで、他に何の情報もデジタル化されない。
其の儘の状態がしばらく続き、帝人の耳に、正臣が怒ったように「マジでもうやめとけよ」と云った声が聞こえた後、電話はぷつりと切れてしまった。
「……もっと、上手い誤魔化し方、あったかも」
夕刻、スーパーへ買出しに行った帰り道、帝人は正臣とのやり取りを反芻していた。
何故、正臣があんなに臨也のことを自分から遠ざけたがるのかは分からない。聞いても、上手くはぐらかされて、肝心なことは何時も聞けない儘だ。以前臨也に聞いた時も、「何でだろうねぇ、わかぁんない」と云われてしまった。
いずれにしても、二人の間に何かあったことは確かだろう。其れは、少なくとも、正臣にとっては嫌悪すべきことだった。分かるのは其れだけ。ベクトルの違いは絶対にあるだろう。皆が皆、同じ方向に物事を考えるのは難しい。
「……僕には分かんないことばっかりだ」
そう独り言を呟き、帝人は空を見上げ、あっ! と声を上げる。
月が行きよりも薄暗くなってきている。食が始まったようだ。
帝人は一目散で部屋へ向かって走る。
部屋へ着くと、要冷蔵のものを冷蔵庫へ押し込み、帝人は一緒に買ってきた弁当を抱えて窓際にどかりと座り込んだ。からからから、と音を立てる窓を開けると、丁度好い角度で月が見える。其れを見上つつ、帝人は弁当を食んだ。
ゆっくりと時間をかけて、月は徐々に暗くなっていき、端から欠けていく。其れを帝人は静かに眺める。
――闇が、蝕んでいく。
月が地球の本影に入り始め欠けていく様を、帝人はそう感じた。正円を描いていた白い月は、ゆっくりとけれど確実に欠け、黒い闇に、未だ本影に隠れていない部分を白く浮き上がらせている。次第に其れも僅かとなり、とうとう月全体が本影に入った。
「……紅い、月」
思わず声を洩らし、帝人は月に見入る。
皆既月食、其れは皆既日食とは違って、月が見えなくなることはない。月が本影に入り中心食が始まると、月は其の形を見せながら、赤銅色に染まる。
其れを眺め、帝人は臨也のことを思い出す。
皆既月蝕特有の赤銅色、其れは臨也の眼の色によく似ていた。
何処か恐怖を覚えるような、けれど眼を離し難い気持ちになる色。臨也の眼を見る時に感じるものに、非常に近しい感覚。
「あの人も、見ているのだろうか……」
帝人は、ぽそりと呟くと臨也のことを考える。
あの人は、あとどれだけのことを知っているんだろう。如何やったら、あんな自信が持てて、色んなことを考えられるのだろう。あの人は、僕の何を知っているんだろう?僕は知りたい、たくさんのことを。僕は考えたい、僕に何が出来るかを。そして僕は変えたい、此の平凡な僕自身と、日常を――。
そうこうしていると、月は再び元の姿を取り戻し始め、紅い色は薄らいでいく。
「……初めてちゃんと見たな、皆既月食なんて」
そう呟くと、帝人はパソコンの電源を入れる。OSが立ち上がると、何時ものようにチャットのページを開いた。其の時、ふと正臣の「あの人には関わるなよ」と云う言葉が脳裏を横切る。
矢霧波江と対峙したあの日、帝人は憧れていた『非日常』に触れた。けれど、其れは断片にすぎない。其れから、日常は昇っては沈み、日々は淡々と過ぎていく。あの日に触れた『非日常』は果敢無いものだった。
ねぇ、正臣。『美しさの本質は果敢無さ』僕は臨也さんの考えに賛成だよ。果敢無げなものこそ危険なほど魅力的で、僕はもう戻れない。僕はもっと知りたいんだよ。……例えあの人が僕を喰らおうとしてる化け物だとしてもね。
正臣に詫びるように、帝人は胸の裡でこぼす。其れからまた空を見上げる。月は未だ薄っすらと赤みを帯びていた。
其れからディスプレイに眼を戻すと、今日もチャットルームへの入室ボタンをクリックしてしまうであろう、咎められるべき右手に左手を添え、眼を閉じると心の底から親友に謝った。
「……ごめんね、正臣」
(2010/07/04)