何も、いらない
それこそ正臣は驚いた。いつもたった一人で戦いに出ていって、たった一人で帰ってくるこの上官が、僚機・・・つまり後続機を持っていたこともあるなんて初耳だ。戦隊もちゃんと組めるんじゃないか、どうして今は組まないのだろう。それに、それが自分の親友だったなんて。
目を見開く正臣に、臨也は軽く息を吐き、新しく来た戦闘機のことでしょう、と話題を突然変える。俺に使えって言いに来たんだよね?と繰り返されて、正臣がやっとで頷くと、子供のように笑った。
「嫌だ。いらない、って言って」
あまりにもあんまりな返事に、眉が寄るのがわかった。そんな正臣の顔を面白そうに眺めて、臨也はもう一度繰り返す。
「いらない」
「あの、ですね。今度の新鋭機は今お使いの機体より、時速が・・・」
「いらない。なんども言わせないでくれる」
それから窓から外を見つめる。そこには、やっぱり空襲で狙われないように木々の下にかくしてある臨也の愛機が、カモフラージュのために草木を載せて佇んでいる。
「秘密の話、君には教えてあげる」
読めない顔で、臨也は言った。
「あの機体ね、帝人君の乗ってた機なんだ」
「・・・え、」
一瞬、何を言われたのか、わからなかった。
そんな正臣に、間抜けな顔だねえとつぶやいた臨也が、軽くステップを踏んで近づいて。
「帝人君がこーんな前線に、しかも自分から希望して行ったって聞いて、いてもたっても居られなくてさあ。本部のおっさんたちに仕事全部押し付けて、来ちゃったんだよねえ、こんな、世界の果てにまで」
「・・・あなた、は・・・」
「帝人君を追いかけてさ、来ちゃったんだよねえ・・・」
こんな世界の果てまで、と臨也が繰り返し笑う。馬鹿みたいだろ、笑っていいよ。でもさあ、来ちゃったよ帝人君って笑ったら、帝人君ってば、『バカじゃないですか』なんて呟いて、泣いたんだ。本当、予想外だったなあ。あの子のことだから、もっと辛辣な言葉が飛んできて、そしてきっと笑い飛ばされるだろうと思っていたのに。馬鹿じゃないですか、なんで死ぬしかないようなところに、あなたのような上官が、って。ぼろぼろ泣くんだよ。俺はどうしたらいいのかわからなくって、泣かないでって抱きしめることしかできなくて、離したくないなあなんて思うことしかできなくて。ああでも、幸せな夜だったなあ、人生で一番。
幸せな、夜だったなあ。
つらつらと流れていく臨也の声が、穏やかに穏やかに空気ににじんで消える。呆然とそんな言葉を聞きながら、正臣は、どうしてだか酷く悲しいような気がして、ぎゅうっと右手を握りしめた。
「俺の機の右後ろ、帝人君が守って居た場所。そこにほかの誰かが居るのが耐えられなくってさ。馬鹿みたいだよねえ、分かってるよ、それでもさ」
臨也は笑う。この笑顔は、生きることに貪欲な戦士の笑顔ではなくて。
この笑顔は、昔を懐かしむような、そして、死を望むような。
そういう笑顔、だ。
「機体は、あれ以外はいらない。僚機も、帝人君以外は要らない」
帝人君がいないなら、俺は死ぬまで一人でいいんだよ。締めくくられた言葉に涙がこぼれた。死にたがりの癖に、確かな技術があるせいで、今まで生きてきたのだろうとわかった。笑えない冗談だ、馬鹿みたいだなんて聞いて呆れる。馬鹿に決まっている。
なんで君まで泣くかなあ、やめてよね、つられるじゃない、と臨也がこぼす。俺は悲しくなんてないよ、俺のゆく道は必ず帝人君につづいているって知ってるからね、と臨也が笑う。だから君はもう帰りなさい、そしてさっきの伝言はちゃんとシズちゃんに伝えてよね、と。
俺はなんにもいらない。
俺が欲しかったものは全部、全部、あの子が持って先に行ったから。
だから何もいらないんだよと。
正臣は無礼も忘れて、おなざりにお辞儀をして、早足でその部屋を退室する。止まらない涙をぬぐいながら家屋を出て、どうしようもない思いを抱えたままで整備していた機体の元まで戻って。
それから。
やっぱり耐えられなくて、声を上げて泣いた。
帝人を追いかけて、こんな世界の果てまで。
来てしまったのは同じだったなあ、俺よりもずっとずっと重いものを背負っていただろうに。あの人は、臨也は、その気になればずっと安全なところで安寧に暮らせたのに。馬鹿だなあ、本当に馬鹿な話だなあ。
嗚咽を噛み殺すことさえできない正臣は、幼なじみの笑顔を思い出して、泣き顔も思い出そうとしてみたけれど、うまくいかなかった。帝人は結局肝心なことは、いつも正臣には言ってくれなかった。転科することも、戦闘機を希望することも、こんな激戦の地へと配属願いを出すことも、これほどまでに想ってくれる人間がいた事さえ。
帝人、帝人、なんであと半年待ってくれなかったんだよ、と正臣は泣く。
そうしたら俺はお前の機体を不調になんか絶対にさせなかった。そうしたら、お前はずっと、生きて笑っていてくれたんだろうか。そうしたら、お前はいつか、あの折原臨也という奴を、はにかみながら俺に紹介してくれたんだろうか。
ないものねだりばかりの涙が、いくつもいくつも地面にシミを作っては、消えた。
数日後、大規模な攻撃作戦が実行され、正臣たちの基地からもほとんどの戦闘機が動員された。
これに負ければ撤退か、と言われたほどの作戦で、そうして、自軍は見事に大敗を期した。
潮時だな、と整備隊長の静雄が言って、整備班は別の基地に移動することが決まった。正臣は戦闘機の燃料が尽きるであろう時間、ぎりぎりまでずっと滑走路の近くで待っていたけれど、結局、折原隊長機はその作戦から戻らなかった。
別の基地に不時着したという話も聞かない。
海に落ちたという話も聞かない。
過去にはそうして浜辺に打ち上げられ、何ヶ月もかけて隊に復帰したという例もあるが、正臣は、臨也は死んだのだろうと思った。ようやく、のぞみのとおりに、帝人のところへ行ったのだろう。
慌しくオイルまみれになりながらエンジンを整備し、機体にあいた穴を繕い、プロペラの回りを確かめて、あっちへこっちへとかけずり回りながら、帝人しか要らないんだと崩れそうな笑顔を見せた大馬鹿者のことを、多分自分は忘れないだろうと、正臣は思う。
ここは戦場で、折原臨也は戦闘機乗りで。
帝人を追いかけてきて、ここで戦った。
一年と少し。
そうしてある日、戻らなかった。
戦場ではよくある話で。
だからこそ美しい、話だった。