紅風
確かあれは諜報の任務で上杉領に潜入した時のことだ。
下弦の月がほの暗く照らす森の中、木々の間をその梢を少しも揺らさず移動する。
様子がおかしいと気付いたのは大分敵地の奥に入り込んでから。
上杉の忍たちはそれなりに優秀で、この俺様には及ばないとしてもその包囲網を突破するのは本来なかなかに骨の折れる仕事だ。
ところがその日、道なき道をどこまで行けども凡そ忍のいる微かな気配すら感じることすら出来ない。
何か罠でも仕掛けているのかと木々を跳び越える足を止め、神経を研ぎ澄ました時。
――風が、濃い血の臭いを運んできた。
(あちゃーこりゃ先客がいるねぇ…)
ふと苦笑を浮かべる。
どうやらその侵入者が、殆どの上杉の忍を引き付けているらしい。
うまくこの隙をつけば面倒事を避けて比較的楽に仕事を終えることが出来る。
誰かも判らぬ侵入者などに構わず先に進むこともこの時は可能だった。
けれども気になった。
あの上杉の忍ら全員を相手しているのが、どれほどの者なのかが。
夜闇に紛れ、風の臭いを頼りに進む。
目下どす黒い血に塗れて転がっているのは上杉の忍。
元は人だったそのモノたちは、何か鋭利な刃物で綺麗に急所を切り裂かれていた。
刃物の扱いに余程長けていない限り見ることの出来ない、いっそ美し過ぎる切断面だ。
先に進むにつれ、濃厚になってくる血の臭い。
同時に近いのだろう、木々のざわめきに混じって刃物のぶつかり合う音と断末魔の悲鳴が聞こえてくる。
両者に気取られぬよう、気配を断ち切って慎重に近付いた。
そこは森の中の少し開けた場所だった。
わずかな月の光が、木の葉に遮られることなく地上に降り注いでいる。
その光の中で、鮮烈な、紅を見た。
その紅を一言で表すとしたら、風。
己をここまで導いたあの、風。
大勢の上杉忍に囲まれながらも、どこか優雅に残酷に、その風は舞っていた。
一際派手な血飛沫が上がって、終わる。
風の起こした鎌鼬によって切り刻まれた骸は環状に血の紋を印す。
その中心にいたのは、物の怪か。
対刀の血を拭いながらも、己は返り血ひとつも浴びずに。
ふいにその影はかくりと膝をついた。
左肩周辺を探り、何かを引き抜く。
一瞬月の光を細く反射したそれは…毒針だ。
無造作にそれを放ると、ゆっくり立ち上がり、覚束ない足取りで歩き始める。
月光の当たらぬ大木の根元、その幹に寄りかかり、糸が切れたかのようにずるりとしゃがみ込む。
あの手の毒は例え耐性を持っていたとしてもそのまま放置しておくのは危険だ。耐性がないとしたら尚のこと。
…いずれにせよ己には関係ない他人事で。
障害物を排除してくれた影に感謝しつつ任務に戻るべきだった。
けれど…それをしなかったのは単なる気紛れだったのだろう。
十分に対象との距離を保ち、梢から地上へと降り立つ。
「はいはーいどうもお疲れ様っと。おぉっと、俺様は追っ手じゃないよ。あんたに危害を加えるつもりはこれっぽっちもないからさ。だからそんな危ないもの仕舞って仕舞って」
案の定構えられた対刀に両手をひらひらさせて敵意のないことを示した。
それでも尚得物を下ろさぬ影に苦笑し、腰の大型手裏剣を外して草むらへ放り投げる。
微かに戸惑った様子が伝わってきたのをいいことにす、と両手を広げる。
「ほーら俺様ってば丸腰。だから少しだけ、傷診せてくれない?肩に食らったんじゃ処置しにくいっしょ」
あくまで友好的態度を崩さずに言ってみれば、奴は暫し逡巡した後、対刀を下ろした。