【サンプル】 Trompe-l'oeil
サンプル 2つ目
「ねぇ、波江。ケーキでも食べにいかないか?」
俺は機嫌良く、自分の斜向かいに腰かけている女に向かって声をかけた。今日は何だか気分がよかったのだ――そう、きわめて日常的な会話をしようと思うほどに。だから、実質上部下である彼女にそう声をかけたのだが、それはいつも通りの事務的な声音で一蹴された。
「結構よ」
予想通りの反応、相変わらずこちらをみるまでもない。まるでパソコンと会話でもしているかのように、ディスプレイを見つめたまま、その手を止めない波江に対して、俺はわざとらしく肩を落としながら言葉をつづけた。もちろん、彼女が見ていないのなんて初めから知っている。
「どうして?俺がせっかく奢ってあげるって言ったのに。あぁもちろんその間も時給換算してあげるよ?」
「だったらその分特別手当をもらった方が嬉しいわ、そうすればあなたと過ごす無駄な時間を誠二のことを考える時間として使えるじゃないの。あぁ、誠二…」
「波江……君って本当に夢がない女だよね」
「そうかもね」
俺は長くため息をつき、再度肩を落とした。勿論、その動作をさせた張本人が見ている訳もない。波江は指先を止める事はおろか、先程から一度も顔を上げようともせずに仕事に集中している。
傍から見れば、懸命に仕事に没頭しているように見えるだろう。いや、何のことはない。この女は仕事をこなしながら、その傍ら自身の愛する弟のことを考えているのだ。それでも、仕事にミスがない所はさすがだと、褒めてやってもいい。
彼女は優秀だった。優秀すぎる、といっても過言ではない。でなければそもそも雇おうなどとは思いもしなかっただろう。改めて考えるのだが、自分の仕事場に誰か別の人間(客ではない誰かだ)がいて、働いているというのは実に滑稽だと思った。それも普通の女ではなく歪んだ女のだから一層笑える。
こちらが最大限譲歩してやっているというのに、この始末だ。たまにはねぎらってやろうと思ったのにも関わらず、こちらのそんな意図すら酌もうとしない。いいや、波江はおそらくこちらの意図はわかっているのだろう。彼女は決して愚かではない、むしろ怜悧な女だ。だが、それをわかった上であえて無視してくるのだからたちが悪いことこの上ない。
ふてくされるようにして、頬杖をつきながら、波江の横顔をじっとりと見つめる。せっかく、いい暇つぶしを思いついたというのに、これじゃあ何もしようがないじゃないか。
俺がそうやってむすっと黙っていると、あろうことか波江が変わらずパソコンのほうを向いたまま先程の続きを口に出した。
「大体、あなたといると嫌でも目立つじゃない、そんなものごめんだわ」
いつもであれば一度一蹴した話題にはそれ以上触れてこないというのに、突然そんなことをするものだから俺は心底驚いてしまった。思わず、何か裏があるんじゃないかと疑いながら(もちろん、その裏とは弟の関連だ。それ以外この女に裏など存在しない)そんなふうに思っているなど微塵も表面に出さずに、ごくごく軽い調子で言葉を返す。
「そうかな――俺としては君といる方がずっと目立つと思うけどね」
そういいながら、俺は彼女を値踏みするように視線をやる。
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(浸食ドルチェ より)
上記サンプルのように、それぞれの視点のお話が計6本と短い漫画1本の本になります。内容としては7巻までのネタばれと、一部原作の焼き直しが含まれますので、ご注意ください。
作品名:【サンプル】 Trompe-l'oeil 作家名:いとり