追憶の檻
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「……ア……ド、……おい、……エドァルド!」
名を呼ばれて意識を引きずり出された。
「エドァルド、起きろ!」
割れた声が強く鼓膜を震わせる。
「……なんですか。うるさいですよ」
なぜだか熱っぽい瞼を押し上げると、そこには先刻まで冷え切っていたはずの二つの湖が心配そうに並んでいた。
「だって泣きながらうなされてるからよ……大丈夫か?」
「少し、夢見が悪かっただけです」
己の目尻に指をあてると、そこはしっとり濡れていた。
何だ、夢か。
いいえ、あれは夢ではありません。
忌まわしき過去。死ねない己の体が、あれほど憎かった時はない。
だって、ずっと、苦しいままだなんて。
「ケセセ、夢で泣くなんてまだまだガキだな!」
凄く焦った顔をしていたのに、もう安堵したのか笑っていた。
とても愛しく、とても尊く、そして何より赦しがたいその顔で。
あの日僕の手を拒んだ癖に、今じゃすっかり丸くなったふりをして、ああ憎い、憎い。僕は悲しくてたまらない。
「……ギルベルトさん」
「何だよ?」
「貴方はどうして、消えないんですか?」
「はぁ?」
一度国でなくなった僕は、どうして消えていないのだろう。それとも今の僕は、前とは違うものなのか。
眼前の男は、とうにその役目を終えているのにやはり消えてはいなかった。ずっと、少しの変化こそあれ、存在は変わらない。
唐突な僕の質問に、男は首を捻って考え込む。
「んな事言われても、難しい事はわかんねぇけどよ……俺を作るものが、ずっと残っているからじゃねぇか?」
貴方を作るもの。それは例えば土地、人、歴史。
僕が守ることのできなかった、ありとあらゆるもの。
「はぁ……そうですか。ところでギルベルトさん、どうしてここにいるんですか?」
布団を除けて、上半身を起こす。風景は勿論、代わり映えのない、僕の部屋だった。
昔ならばいざしらず、この人が僕のもとを訪れるとは思いもよらない事だ。
「え、今更だな! 仕事で近くまで来たんだけどよー、お前が風邪だって聞いたから様子見に」
僕が傷付き弱っていたあの時に、そう言ってくれたなら良かったのに。今の僕じゃ、到底素直になんてなれませんよ。
もしも昔、ほんの数年たらず、共に暮らしていたあの日々に。その言葉をくれたなら、どれほど支えになったかなんて、貴方にはまるで分かるまい。
「それはどうも……でも頼んでませんよ」
「うわ、可愛くねぇな。さっきは寝言で俺様の名前呼んでたくせによぉ……」
しまった、声に出していたのか。
悪夢にうなされ助けを求めたのが、よりによってこの男だなんて。まともに考えれば、笑い話にもならない事だ。
「……呼んでません」
「いいや、俺は聞いたね」
「呼んでません。自意識過剰もたいがいにしてください」
自意識過剰、の言葉が効いたのか、ギルベルトさんは口を閉じてうなだれてしまった。
自覚はあるのか、なかなかどうして残念な人だ。
「まぁ、ちょっと経済変動が激しかっただけですよ……ご心配いただくほどじゃないです」
何しろ僕は優等生であるため、不覚にもほんの些細な問題で調子を悪くしてしまったのだ。
彼はそうかと軽く相槌を打ち、きょろきょろと物珍しげに部屋を見回している。
「ギルベルト、さん」
こちらを見てくれないのがなんだか不満で、その腕を掴み軽く引き寄せる。そのまま崩れる体をキャッチして、無防備な唇を掠め捕ってやった。
思いの外、その渇いた部分は柔らかく温かかった。
「……ん、むっ!?」
「おっとすみません、眼鏡が無いので手が滑りました」
ええ、勿論あれは伊達なのですけど。この人はそんなことなど知るまい。
僕が白々しくそう言うと、ベッドに手をついたままこちらを睨んできた。湖は、紫に揺れる。
「な、な……何しやがる……!」
「だから、手が滑ったんですよ」
ごしごしと口を拭われてしまい、そのつれない反応に肩を竦める。
けれど怒って出て行くような事にはならなかった。なにがなんでも見舞う気らしい。
枕元に上げておいた眼鏡を手に取り、ゆっくりと掛ける。硝子越しの視界の真ん中で、僕よりずっと年上の男が、顔を真っ赤にしてうろたえていた。
僕を助けてくれないから、そういう目にあうんですよ。
「……まったく、可愛い人だ」
小さく呟いた言葉は、その耳には届かなかったようだった。
(僕達の未来が、過去に嘆かず済むほどに、どうか幸せでありますように。)
おわり