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 カシム・ハジルを新たに仲間に迎え、いよいよ帝都グレッグミンスターへの進軍が目前となった。遠征したその足のまま大広間での軍議を終え、皆を労い解散する。ティエルは腕を伸ばし肩を鳴らしながら、ふと気付いたように振り返った。
「そうだ。モラビア城で手に入れたもの、イワノフとユーゴに渡さないと……」
 誰が預かってくれていたのだっけ、と問うティエルに、フッチが手を挙げる。
「あ、おれ。絵の具なら持ってる」
 言いながら背負った袋を漁るフッチを、ティエルはその手を取ることで制した。
「丁度良い、おいでフッチ。君も一度イワノフの絵を見てごらん」
「おれ、別にそんなの、」
 聞こえていないのか敢えて聞かずにいるのか──フッチの手を取る左手に一度緩く力を込めたあと、ティエルはするりと階段を下り始めた。それに抗うことを許されぬまま、フッチは慌てて助けを請うように背後の仲間を振り返る。けれどカイもビクトールも──そしてフリックも、ただ笑みを向けるだけで。……助けは期待出来そうになかった。薄情な彼らに眉を寄せ頬を膨らませる。そうしてフッチは強く腕を引いた。
「ティエル! おれ一人で歩けるったら! 離せよ!!」
「だめ。離したら君、風のように逃げてしまうもの」
 振り向かぬまま、どこか楽しげにティエルはさらりと言い放つ。フッチはますますくちびるを尖らせ、重ねて抗議しようと口を開いた──ところで、前行くその背に強かに鼻を打ちつけた。
「あいたっ! このっ、いきなり止まんな!」
 絶対わざとだ──フッチにはそう思えてならない。そうして鼻を押さえながら拗ねたようにそっぽを向く。振り返り、ティエルは困ったように肩を竦めて笑んだ。
「ごめん。もう着いたよ」
 そう言って繋いだ手もそのままに、二人は顔料の匂いの混じりこもるその部屋へと足を踏み入れた。

 イワノフは壁一面のキャンバスを前に深く項垂れながら、片手で顔を覆い長く息を吐いた。そうして気付いたように振り返る。その相貌はひどく憔悴していた。眼孔は窪み隈に縁取られ、頬はこけている。あまりの様相にティエルもフッチも──言葉を紡げずにいた。
「ああ……ティエル、あんたか」
 イワノフは吐息を滲ませ、くちびるを辛うじて笑みの形に象った。そうしてまた、背を向ける。
「どうしても、どうしても見つからない。あと少しだというのに──それが何なのかさえ、わしには判らないのだ……!」
 苦悩の嘆きで空気を震わせ髪を掻き毟る。ティエルはフッチに絡ませていた指をやんわりと解いたあと、イワノフの背中へと手を触れた。そうして落ち着かせるようにゆうるりと撫ぜる。
「焦らないで、イワノフ。目を心を、広く持つんだ。こんなに自分を追い詰めていては……見えるものも見えない」
 最後に一撫ぜし、軽く肩を叩いた。
「マリーのところへ行って、レスターにあたたかいシチューを用意してもらおう。そうしてまた、君の世界に向き合えば良い」
 イワノフがゆるゆると顔を上げると、覗き込むティエルの双眸へと自然惹き寄せられる。このトランの城を守る湖のように凪いだ眸。その奥に見える自由と解放の──
「なぁ、これ。オッサンに渡さなくていーの」
 ぱちんと、泡が弾けるようにイワノフの思考が霧散した。どこか不機嫌な様子の小さな少年が、ティエルの後ろから顔を覗かせる。差し出された手に在るそれ、
「少年! あんた、これ、これは……!」
 大きく音を立てて椅子を倒しながら、イワノフはフッチへと駆け寄りその手ごと絵の具を握り締めた。イワノフの勢いと必死の形相に口元を引き攣らせながら、フッチはティエルへと視線を投げる。そうしてようやく気付いたように、ティエルが頷いた。
「すまない。あなたがあまりにもひどい様子だったものだからすっかり忘れていた」
 離すまいと固くフッチの手を──正確にはその手にある絵の具を──握り締めるイワノフの両手をやんわりと解いて、その手のひらに請われるまま捧げ置いた。
「イワノフ、これは先の戦いで手に入れたものだ。あなたの世界を彩るものだ。どうか受け取ってほしい」
 手のひらに収まる小さなそれを、イワノフは震える両手で包み持った。そうして見開かれた眸から大粒の涙があとからあとから零れ落ちる。
「──これだ、これがわしの求めていた最後の色だ……! 新たな命を育む春の息吹の色、世界を満たす愛の色だ!」
 腹の底から搾り出すように、涙と共に声を震わせた。包み持つ絵の具へと祈るように額付き、何度も何度も礼を言葉を尽くす。
 ひとしきり満足したところで、ようやくイワノフは顔を上げた。その相貌は涙でぐちゃぐちゃだったけれど、満面の笑みに彩られていた。
「ありがとう、ティエル。ありがとう、小さな少年。これでわしは、この絵を完成させることが出来る」
 そう言って、背後の壁画へと振り返る。
 気付いたときには、イワノフはティエルたちなどには目もくれず一心不乱に筆を滑らせ始めていた。先ほどまで今にも死んでしまいそうなほど打ちひしがれていた姿は最早ない。ティエルとフッチは互いに顔を見合わせほんの少し噴き出したあと──部屋を静かに後にした。

 その夜、宛がわれた部屋でうつらうつらと微睡んでいたフッチの元に、そっと忍び寄る影があった。思わず悲鳴を上げそうになるフッチの口元を覆い、影──ティエルは逆の手で自身のくちびるへと指を当て囁いた。
「静かに。皆が起きてしまう」
「ぷっは! ちょ、『静かに』じゃないだろ! なんだよこんな時間に」
 その手を引き剥がしぶつぶつと罵倒しながら、フッチはベッドから飛び降りた。ティエルはそのまま背を向け歩き出す。
「おい、なんだいもう。夜逃げでもすんのかい」
「まさか。──イワノフの絵が完成したって。こんな夜中だけれど一番に見せたいのだと言うから君もと思って」
 湖面の波音と、二人の小さな足音だけが夜のしじまに響く。そうして階段を昇りきった先に、ただ一つ灯りの灯された部屋が見えた。
「すまんな、こんな遅くに」
 迎えたイワノフはそう言って、二人に温かいカップを差し出した。ティエルには紅茶を、フッチにはミルクを。フッチはほんの少し眉根を寄せ、けれど怒るのも大人気ないとばかりに静かに目を伏せ口付けた。
「ようやく完成したんだ。あんたらのくれた最後の色のおかげだ。だからあんたらに一番に見てほしかった」
 言いながら、壁画を覆う布を勢い良く引いた。
作品名:ありがとう 作家名:lynx