今夜月の見える丘に
緩やかに、穏やかに、時間が流れていく。
月明かりの下、草薙俊平は黙ったまま、先を行く湯川学の背中を見ながら歩いていた。
「少し散歩に出てみないか」
そう言い出したのは湯川のほうで、散歩と言うからには近所をブラつく程度のものだと思っていたが、湯川は草薙に車を出させて、奥多摩方面を目指した。
「夜はいいものだ。闇は人に安らぎと、深い思索の時を齎してくれる」
スカイラインのナビシートで足を伸ばしながら、湯川は指先でコツコツと窓ガラスを叩いた。
「だからって、そんな遠くまで行く必要があるのか」
「都内じゃ明る過ぎるんだよ。眠らない街は落ち着かない」
湯川はそう言って、少し笑った。
目的地に着く頃には、丸い月は天の高処に上りきっていて、柔らかな光を投げかけていた。
「さあ、行こう」
その下に広がる森を指して、湯川は歩き出す。
灯り一つない森の中は暗くて、直ぐ傍に居るはずの湯川の姿もよく見えなかった。
湯川は歩くのが早い。最初は見失わないようについていくのが精一杯だった。
だが、次第に眼が慣れてきて、仄かな月明かりでも、その軽やかな足取りが見えるようになってきた。
濃い新緑の香りに満ちた夜気が、肺を侵す。
それは少し冷たくて、意外に心地良いものだった。こんな感覚は、随分と久しぶりだ。
「俺たちがガキの頃は、未だ近所に雑木林が残ってたりしたものな。それに似てるよ、懐かしいな」
草薙がそう言うと、湯川は頷いた。
「森林浴、という言葉があるくらいだ。森林浴と精神のリラックスの関係は知ってるだろう?」
「フィトンチッドがどうたら、というやつか?」
「もともとフィトンチッドは、傷つけられた植物が出すアレルギー物質の一つなんだ」
「へえ」
「傷ついた部分に虫が寄ってくるのを防ぐ為に、彼らは自分で身を守ろうとする。フィトンチッドに強力な防臭・殺虫成分が含まれているのはその為だよ。それが人にとっては、何ら害のない、寧ろ心地良いものになるのだから不思議だ。そう思わないか?」
薄い闇の中で、草薙を振り返った湯川の眼鏡のフレームと、その瞳が静かに光った。
何故か胸が高鳴る。
「疲れたか? もう少し行くと、展望台がある。そこで一休みするとしよう」
月明かりの下、草薙俊平は黙ったまま、先を行く湯川学の背中を見ながら歩いていた。
「少し散歩に出てみないか」
そう言い出したのは湯川のほうで、散歩と言うからには近所をブラつく程度のものだと思っていたが、湯川は草薙に車を出させて、奥多摩方面を目指した。
「夜はいいものだ。闇は人に安らぎと、深い思索の時を齎してくれる」
スカイラインのナビシートで足を伸ばしながら、湯川は指先でコツコツと窓ガラスを叩いた。
「だからって、そんな遠くまで行く必要があるのか」
「都内じゃ明る過ぎるんだよ。眠らない街は落ち着かない」
湯川はそう言って、少し笑った。
目的地に着く頃には、丸い月は天の高処に上りきっていて、柔らかな光を投げかけていた。
「さあ、行こう」
その下に広がる森を指して、湯川は歩き出す。
灯り一つない森の中は暗くて、直ぐ傍に居るはずの湯川の姿もよく見えなかった。
湯川は歩くのが早い。最初は見失わないようについていくのが精一杯だった。
だが、次第に眼が慣れてきて、仄かな月明かりでも、その軽やかな足取りが見えるようになってきた。
濃い新緑の香りに満ちた夜気が、肺を侵す。
それは少し冷たくて、意外に心地良いものだった。こんな感覚は、随分と久しぶりだ。
「俺たちがガキの頃は、未だ近所に雑木林が残ってたりしたものな。それに似てるよ、懐かしいな」
草薙がそう言うと、湯川は頷いた。
「森林浴、という言葉があるくらいだ。森林浴と精神のリラックスの関係は知ってるだろう?」
「フィトンチッドがどうたら、というやつか?」
「もともとフィトンチッドは、傷つけられた植物が出すアレルギー物質の一つなんだ」
「へえ」
「傷ついた部分に虫が寄ってくるのを防ぐ為に、彼らは自分で身を守ろうとする。フィトンチッドに強力な防臭・殺虫成分が含まれているのはその為だよ。それが人にとっては、何ら害のない、寧ろ心地良いものになるのだから不思議だ。そう思わないか?」
薄い闇の中で、草薙を振り返った湯川の眼鏡のフレームと、その瞳が静かに光った。
何故か胸が高鳴る。
「疲れたか? もう少し行くと、展望台がある。そこで一休みするとしよう」