今夜月の見える丘に
丘の上の展望台には、視界を遮るものは何もなかった。
眼下には、今歩いてきた森が黒々と広がっている。
何処に持っていたのか、湯川はミネラルウォーターの瓶を取り出して、肩で息をしている草薙に投げて寄越した。
「運動不足だぞ、草薙。普段からもう少し身体を動かしたほうがいいんじゃないか」
「体力には……自信があったんだがな……」
草薙は喉を鳴らして、冷たい水を飲み下す。
湯川は笑いながら、芝生の上に足を投げ出して腰を下ろした。
「ああ、いい夜だ」
うっとりと眼を閉じて天を仰ぐ湯川の横顔は透き通るように白く、儚いほどに細く見えた。
再び胸が高鳴るのを感じて、草薙は慌てて湯川から視線を逸らす。
「こうしていると、自分が人間であることを忘れてしまいそうになる。人はよく、人間は特別な存在である、と思いがちだが、それはとんでもない間違いだ。月の光を浴びてみれば分かる。人間もまた、この星の一個の生物に過ぎない、ということがね」
その言葉に、草薙は思う。
湯川は、人間が嫌いなのだろうか。人間で在ることを、憂いているのだろうか。
大学の研究室で、好きな物理学の研究に没頭する穏やかな日々を過ごしていた湯川を、捜査への協力を要請するというかたちで、必要以上に他人と関わらせるきっかけを作ったのは自分だ。
物騒な事件や事故、遣る瀬のない理由から引き起こされる殺人……それらを通じて、湯川は人間の汚さにまみれ、それは決して取れない染みのように、湯川を蝕んでいく。
真夜中の散歩に出歩き、月の光を浴びることで、湯川は己の内に巣食った穢れを浄化しているのかも知れない。
そう思うと、酷く辛かった。
「……草薙?」
ふと我に返ると、湯川は不思議そうな(かお)で草薙を見ていた。
「そんなに疲れたのか?」
「え?」
「泣きそうな顔をしてるぞ」
湯川の細い指が、草薙の頬に触れる。
驚いて、思わず身体を強張らせると、湯川は微苦笑を洩らした。
「心配するな、獲って食ったりはしない。……何かついている。睫毛かな」
頬を滑る湯川の指先は温かく、予想以上に柔らかくて、草薙は眼を閉じる。
ずっと触れていたいような、そんな気がした。
「――取れた。やっぱり睫毛だったよ」
「湯川」
離れていこうとする湯川の手を握って、草薙は彼の名を呼ぶ。
湯川は小首を傾げて、草薙を凝視めていた。