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茜さす叙情

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『手当しねぇくらいだったら、俺がやってやる』
 いつだったか、血だらけの腕をかばうようにして教室に入ってきた姿を見たときに、そう言った事があった。
 その言葉を律儀に覚えているのか、折原臨也は放課後の一騒動の後、きまってこの場所にきた。
 夕日が差し込む教室に、こちらが一人座っている姿を見つけては、ひらひらとその手を振り、体中を傷だらけにしていることなんてまるで他人事みたいな顔をする。だと言うのに、決まってこいつは「手当てしてよ」とその腕を差し出すのだ。自分の体をつい先ほどまでまるで他人のものみたいに思っていたくせに、つくづくよくわからない。
「あの岸谷ってやつのところにいけばいいだろ」
 俺は自分のロッカーから、いつの間にか備え付けておくようになった大きな救急箱を引っ張り出しながら、そんなやり取りをする。
「いやだよ、新羅のとこなんて行ったらもれなくシズちゃんがついてくるんだ、ホントあいつバケモノだよ…」
 臨也は俺の言葉に溜息をつきながら憎々しげに、そうつぶやいていた。
 同じクラスになってまだ数週間、その間隣の席で授業を受けているときにちらりと確認している程度だったが、こいつが憎悪と言う感情を見せたことは一度もなかった。しかし、今こうして俺の目の前にいる男は確かに顔をその感情に歪ませていた。薄ら笑い以外めったに自身の感情をのせることのないその顔を、ただ憎悪に。
 かと思うと途端にその顔色を変え、いつもどおりの表情になる。こちらがそうやってみていることに気付いたのか、何なのか。探ろうとすればひらりとかわす。
「それにドタチン、俺のこと待っててくれるでしょ」
 今度はくずれたように笑う。まるで百面相のようなのに、不思議なことに、そこには感情の機敏は先ほどの憎悪以来一切見受けられなかった。(もちろん、今はその憎悪さえ見受けられない)
 こうやって表情の上に感情を一切覗かせないこの男に対して、その先の見えなさに対して、俺は胸の奥になにか閊えのようなものを持っているのかもしれない。それに気付いたのは多分、つい最近だ。
 改めてその顔を見ていると、まるで感情というもの自体がそげ落ちてしまったかのようだと、なんとなく思ってしまう。
「うぬぼれんな」
 俺は手を伸ばして、にへらと笑った男の額を軽く小突いてやる。臨也はひどいなぁとすこしだけむくれるようにしていたけれど、やはりそこに感情らしいものは見受けられなかった。

 俺は長くため息をつきながら、そこに座れと臨也を促し、救急箱の蓋を開く。
 そして慣れた手つきで消毒液を手に取る。ついこないだ新品を買ったばかりだというのに、もう半分以上無くなってしまったのかずいぶんとそのプラスティックの入れ物は軽かった。――また買いたさねぇとな。
 そんなことを考えながら、その蓋をあけると、消毒液がもつ独特の香りが鼻をついた。俺にとってはこれが夕方の匂いになりつつあった。
 こうして手当をしてやるのも、もう何度目になるかなんて忘れてしまったが、ここ数週間でずいぶんと手当もうまくなったものだと思う。
 臨也は先ほどから、いかにあの男が異常で、化け物かということを――もう何度も聞いた話をただ繰り返すように語っていた。俺はいつも通りで変わることのないその話の断片を拾いながら、話の男のことを頭に浮かべた。
 バケモノだ。そう臨也がいうように、あの平和島静雄という男は俺からみても、人間ではないのんじゃないかとしか思えなかった。用具を振り回し、咆哮する様は、まさに獣のようだった。窓の向こうで繰り広げられる光景はいつもどこか遠い世界の話のように思えてならない。まるで、その空間だけ別次元に飛ばされてしまって、それらを作りものか何かの映像かのように思いながら見ているような錯覚に囚われてしまう。
 その人ならざるような男に何度となく向かっているのは、ほかならぬ、目の前にいるこの男だ。いつだってまるで踊るように立ち回っては、平和島静雄を激昂させていた。そして、コイツはそのたびにこうして傷を負い、憎悪を募らせた。これは、何度も何度も繰り返された光景だ。すでに終わりが決まっている出来事の繰り返しに過ぎない。
 それを遠目から――またこうして近くでも見ている俺は、いい加減にやめればいいのにと思うことしかできなかった。
 きっとそういってやれば、それじゃだめなんだよと、笑うのだろう。いつもの通りそこに憎悪という感情を乗せて。――何となく、わかる。
 そんなことを考えながら、この学習能力のない男の腕に消毒液をはわせると「痛い」と短く声を上げた。もうすこし優しくやってよ、なんて唇をとがらせるその姿を見ていると、やはりどうしてあの獣に立ち向かっていきたいのか心底理解できない。
 嫌悪は心の中でくすぶらせるだけではだめなのだろうか。絶対な勝利として勝ち取ることに(あくまでも分が悪い勝負であることなんて初めからわかっているのに)何の意味がある?
 俺は少し血の滲み始めた包帯を見つめながら、溢す。
「おまえ、もうやめろよ」
「何?心配してくれるんだ。やさしーなあ、ドタチンは」
 臨也はやけに大げさにそう呟いた。そうやってすぐに言葉を日常へ紛れさせようとするのはこいつの常套手段だと俺は何となくわかるようになっていた。
 どうして、憎悪を対象として争う必要があるのだ。なぜそれをここで殺さなければならないのだろう。
 消毒液をはわせた腕は細く、白く、今ここで力をくわえたならば簡単にぽきりと折れてしまうのではないかと思えるほどだ。そんな男が獣に勝てるわけが、ない。
「あぁ、心配だよ。お前が」
 俺は今度はその顔をみながらそういった。
 そういってやると、いつだって飄々としている目の前のこの男はとたん面食らったような顔をした。まるで言われたことのないような言葉を聞いたときみたいな顔だ。
 静かな教室に、遠くで練習しているだろう吹奏楽部のロングトーンの音がむなしく響く。つい先程まで、校庭は臨也と平和島静雄が暴れ回ったせいで怒号であふれかえっており、とてもじゃないが練習何ぞできなかった運動部も、今ではようやく練習できるようでランニングのかけ声が響きあう。
 そんなどこにでもある高校の夕方にひびく会話。
「なにそれ、それじゃまるでドタチンが俺のこと好きみたいじゃん」
 臨也は一寸の沈黙の後、いつもどおりの冗談みたいな口調でそういった。その口元には、やはりいつもと変わらない薄笑いが飾られていた。
 だんだんと赤がにじみ始めた教室に、その夕焼けと同じくらい赤く燃えるような臨也の瞳が揺れていた。
 その瞳はいつだって人を探るようだと思った。それこそ、入学式をおえ、同じクラスの隣の席となり、言葉を交わしたそのときから、手当をしてやるなんてよくわからない約束をしたときまで、何一つ変わらない。
「そうだっていったら」
 俺は包帯を巻く手を止めて、同じくいつも通りの口調で返した。ちらりとそちらをみやると、一瞬だけその赤い瞳が揺れたような気がした。
 けれどそれもあったかなかったくらいの短い間で、臨也はなんとなしにやはりとうとうとその口を開く。
「そうだなあ、じゃあキスでもしとく?」
作品名:茜さす叙情 作家名:いとり