田中さん(仮)
トムさんは部屋に入ってきて、最初に布団に入っている俺に目をやったあと、田中さん(仮)にすぐに気付いた。
なんで気づくんだ。ここにいるんだから当然だと思いつつも、俺は驚かざるをえない。
だって俺の幻覚のはずだ。なぜトムさんに見えるんだ。
そんな中、田中さん(仮)はすいと部屋を出て行った。
トムさんは追いかけていったけれど、もとより探し回るようなスペースもない。すぐに見失ったらしく、戻ってきた。
「消えたわ…って、あー…俺??」
「…ッス…」
うまく説明できなかった。
今になって、浮気現場を見られたような、奇妙な居心地の悪さが俺を襲った。
「…まあいいや。熱はどうだ?」
トムさんは優しい。
何か自分で思うことがあるときであればあるほど、俺の話をする。
勿論俺の今日の体調というのがあるのもわかるが、「携帯もつながんねェし、心配したべ」そういいながらおじやを作るトムさんはいつもより数倍かいがいしく、俺のことばかり話した。
トムさんが帰っても枕元にりんごはなかった。
そのせいかどうかはわからないが熱をさがらなくて、翌日仕事に行くと同時にとんぼ帰りさせられた俺はまた布団に入った。
そのトムさんは、今日は来ないと言っていた。来れない、ではなく来ない―――何か理由があるんだろう。
別れ際、トムさんは今まで何度か出た話をした。
「なぁ静雄、この間言った話覚えてるか」
「…一緒に暮らすって話ッスか」
数週間前、最初その話を聞いた時、俺はひどく舞い上がって、そのあとひどく落ち込んだ。
無理だと思った。
力の加減ができずに壊してしまう家具であったり、一緒に住めば俺に恨みを持つ奴に狙われる確率だってあるだろう。
俺は他の人と暮らせるような人間じゃないんです。そうとしか言えない。
でも俺は断りたくなかった。だから返事せずにいたのだが。
「具合悪い時に答えは出さなくてもいいけど、考えてくれよ。…心配なのよ。病気の時とか特にな」
トムさんが考えているのは本当はそこではない、となんとなく思う。
でも、じゃあなんなのかはわからなかった。
昨日田中さん(仮)を見て幽霊だと思ったんだろうか。とりつかれるとかそういう系の。
でもそれにしては田中さん(仮)はトムさんすぎるし、昨日やべぇすぐ逃げろ的な話にはならなかったし。
布団の中でぐるぐる考える。考えるが俺の考えはトムさんには届かない。俺がバカだからか。
そうじゃない。俺がトムさんじゃないからだ。
携帯は代替のものを借りてきた。この手続きだけは慣れたものだ。それを手で一度開けて、閉めた。
田中さん(仮)の気配がした。俺はそちらに目をやる。やはりいる。
サラサラの髪、カタギそうな格好。
中学校のときの田中先輩を知っていたら、こっちの方がしっくり来る容姿。
田中さん(仮)を見ながら、俺は初めて、「なぜ田中さん(仮)はトムさんと見かけが違うのか」を考えた。
そのとき、なぜか俺は唐突に思い出した。
「俺だって、俺になるはずの全部を殺してここにいるってわけだ」
トムさんがそう言ったのは、確か俺が何かを壊しすぎて「力なんてなければいいのに」と激しく落ち込んだ時だった。
その後、トムさんはこうも言った。
「お前ならどのお前でもいいけど、今のお前が一番好きだべ」
馬鹿な俺はそのとき後半のところで心臓が止まりそうになって、そのほかの部分はよく理解できなかった。
いや、理解しようともしてなかった。だけど今初めて何となくわかった。
そうだ、もしかしたら。そう思った瞬間、当の田中さん(仮)によって思考は遮られた。近くに来ていた田中さん(仮)手を額に置かれる。冷たい。
そしてはじめて、田中さん(仮)は俺に言葉をむけた。
「じゃあな」
唐突に、もう二度と会えないのだと思った。
俺もこの人を殺すのか。そう思うと悲しかった。でも、俺にはそうやってしか、今のトムさんを愛することはできないのだとわかった。
俺の声が出なかったのは喉が痛かったからではない。体が動かなかった。田中さん(仮)は聞きたくなかったのだろう。
謝罪も、感謝も。
田中さん(仮)はゆっくり消えた。
いつもは俺が眠るまで待っていてくれたから、消えるのを見るのは初めてだった。
全身がかすむように、最後に指先が残り、それも消えた。最後に残ったのが「冷たい」という温度だった。田中さん(彼)がいつから死んでいるのか俺は知らない。与えられることに甘えたガキでしかない俺は、本当に悲しいほど何も知らなかった。
翌日、りんごを食べないのに熱が下がった。さみしかったけれど、我慢して出勤した。
+++++++++++
熱が下がった俺はトムさんに話をした。「この間の話」だ。
トムさんは俺の頭をぐしゃぐしゃした。温かい手だった。
「あいつより幸せにする」
田中さん(仮)が来ることはもうないだろう。
そして、帰ったら俺は引越しの準備をする。
<終>