king of solitude
留守を預かっているその女は、手持ち無沙汰な苛立ちを、やけに高そうなワークデスクを指打つことで示していた。
だがその部屋には彼女以外は存在しない。本来ならその部屋の主たる彼女の雇い主にぶつけたい苛立ちだ。
―――君は優秀だから、あれこれ指図しないほうが仕事しやすいだろう。
利口だから、俺みたいな上司がどう処理すれば納得するかもわかるよね?
そう貼りつけたような笑顔で細々とした処理を押し付け、当の本人はいつの間にかふらりと出ていく。
仕事、の一環で出るのならこちらもそれなりに把握しているからいい。だが、唐突に出ていくとなれば戻る時間も分からないし、電話もメールも通じなくなる。
そうして出ていった時は、大方胸糞が悪くなる彼の趣味だとかに興じて戻ってくる。
聞いてもいないのに、見えない本でも朗読するかのように、何があったのか、そして何が起り、どう思っているのかを語ってくる。
聞くだけその男に対しての嫌悪感しか募らないので、ただ聞き流してはいるが。
男も別にこちらが興味を持とうと意見を持とうと関係も興味もないはずだ。実の話、今まで特に意見を求められたことはない。研究者である彼女は彼にとって、得意とする医学的な知識の、生きた辞書ぐらいの期待ぐらいは向けられているだろうが。
でも押し黙ってしきりに何か考えたかと思えば、何の脈絡もない話をし、やることなければ帰っていいよと言われる。そんな時はうまく事が進まなかったのだろうが、いちいち聞こうとも思わない。
そういう事も多々あるが、他にも
「ただいまー、ごっめんねー波江、ちょっと待たせたかな?」
心にもない謝罪をしながら、波江と呼ばれた女の前に現れた件の男、臨也。
一日に何度ついたかわからないため息を殊更大きく吐いて、座ったまま見上げた。
「…待機時間も残業になるのかしら」
定時、というのはここにはない。だが大体同じ時間には終わっている。今はその時間も大きく過ぎてしまっている。
「もちろん、いつも君の働きには感謝しているし、仕事でも大いに助かってるからプラスアルファしちゃうよ」
「最近はすっかり貴方の仕事とやらはデスクワークがなくなったわね」
「その分外に出て動いてるんだって。働き者になったよ俺は」
そう言っている臨也の顔を見ると、打ち付けたのかぶつかったのか、擦り傷や口元には血を拭った跡もある。コートは埃がついているし、手の甲にも傷がある。
それを見た波江は顔をしかめてしまう。
痛々しさからじゃない、またか、と呆れているからだ。
臨也はそんな波江の態度に気付いていつつも、手にしていたコンビニの袋をテーブルに置き、汚れたコートを掛ける。その足で風呂場から濡らしたタオルを持ち、何故か充実した応急セットを抱えて、波江から見えるソファーに座り込んだ。
顔をタオルで拭い、七分丈のカットソーを腕まくりすれば、少し広く赤黒くなった二の腕が現れる。
「うわっ、意外と痛い…。やだなぁ、最近アザとか治り遅いんだよねぇ。年はとりたくないもんだ。
ねえ波江?」
2つ程年が上の女性に意見を求めるのはどうかと思うが、一人でやりにくそうに傷の手当てをしている臨也を、何も言わず憮然と見ているだけ。
彼女は一応医学に関連する仕事に従事していたし、それも遠い話じゃない。目の前に傷付いた人がいれば適切に処置もしただろう。
だが、臨也だからという理由より、自分が最愛に想う存在以外に何か施そうなどとは露にも思えない。
また臨也も、自分に手当てなどされたくはないだろう。
貸し借り、というより一定以上干渉されたくない男なのだ。御託や持論をひけらかす上では非常に面倒な男だが、一方で子供臭い単純な面もある。
「わざわざ池袋まで生傷作りにいったの?飽きないわね」
こっちはもう飽き飽きよ、と続けようとした。
「とっくに飽きてるよ、こーんな痛いのもうゴメンだよ。なんでシズちゃん、死んでくれないんだろ」
こうして生傷作ってくる時は、決まって同じ。昔から仲が悪いという同級生と、街の往来で些か派手に喧嘩してくるのだ。殴り合うだけで収まればいいが、臨也はナイフを簡単に振りかざすし、相手のシズちゃんーー静雄は、手当たり次第に物を投げつける。
常人離れの怪力の持ち主である彼は、まだ投げていないのは建物だという。巻き込まれたという話はチンピラを抜けば一般人にはまだないのがせめてもの救いか。
テーブルの応急セットの横に、畳めなくなったナイフが無造作に置かれている。頑丈なはずだが、多分静雄に曲げられたか壊されたのだろう。
擦り傷の消毒を一通り終わらせ、コンビニの袋からロックアイスを取り出してそのまま袋ごと腫れ出した腕に当てる。随分と横暴な応急処置だが、間違ってはいない。
「そんなに嫌ならもう関わらない方がいいんじゃないの。どうせまた、傷が治れば喧嘩するんでしょう?
あなたならどうとでもできるでしょうに」
波江は自身の荷物を纏めだし、帰路につこうと席を立った。その気配に気づいても、ソファーに座っている臨也は、振り向くことなく短く笑った。
「本当だ。俺なら誰某に頼んでシズちゃんを消そうとか、池袋や東京、いや日本に居られなくなるよう仕向けるのも楽勝だよね。でもね、それじゃ意味がないんだ」
「あら、揺るぎ無い理由でも?ただ街中で公共物を破壊しながら喧嘩するだけなのに?」
何故か、間が空く。
ほんの一瞬だった、息を吸うには長い一瞬。言葉を選ぶには短い時間。
「あいつ、シズちゃんはね、本当に嫌いなんだ。何も考えてないし、損益だとかで釣られないし考えない。
俺の言う事全部爪先から髪の毛の先っぽまで拒絶するわ否定するわ聞かないわ。殴っても刺しても傷なんか全然付かない。だから本当に消えちゃわないかな。
ただ死ぬだけじゃなくて、俺の記憶からも、そこにシズちゃんが存在していたっていう事実も全部、―――――全部」
ふ、と波江には軽い違和感が過ぎった。普段こういう能書きには微々たる抑揚と感情しか込めない男が、憎々しそうに、でも熱を込めたそれこそ力説をしている。言い換えれば、ひどく生き生きと。
こういう面が子供臭いのだ。それを説明してあげてもいいが、また得意の理詰めで否定され、隠すだろう。背を向けたままの臨也の表情はわからない。波江が帰ろうとする空気を感じても何も言うつもりはないようだ。
「存在そのものが許せないなんて、大変ね」
「俺の手で転がらない人間は、必要ないの。興味もない。でもあいつは勝手に邪魔はするし、関わってくるし、消えないわで迷惑。いきなりゴミ箱や看板ぶつけてくるしもうサイアク」
どうやら腕にはそのどちらかかどちらともかがぶつけられたようだ。見た目は到底喧嘩向きじゃない臨也も、少しは頑丈らしい。
いつも決着らしい決着も付けれず、大体痛み分け。勝ち負けじゃなく、殺るか殺られるかのやり取りらしいが、それとはまた雰囲気が違う。
「そこまで思うのに平和島に会おうなんて、よく想うわね」
「会いたくないのに、会っちゃうんだよ。池袋に俺が来たらシズちゃんにどっからか伝わるみたいだし。それにさ」
唐突な沈黙。
作品名:king of solitude 作家名:ヨモギ