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僕を呼ぶ君の声が聴こえた

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 燻らせた紫煙が、つきぬけるような蒼へと昇って行く。
その流れを目で追って、男はふいに歩みを止めた。
歩行者道路の、そのど真ん中。通行人は一瞬迷惑そうに流れを遮る障害物に目を向けるものの、ソレが何かを認識して瞬時に、関わり合いになるものかと意識を外へと流すのだ。
陽を弾く黄金の髪。スラリとした痩躯を包むのは白いシャツ、黒のベストに同色のスラックス。首元には着けかけの蝶ネクタイがおざなりに引っ掛かっている。
そして眼元にはサングラス。これだけの特徴が備わっていれば、池袋に住まう人間達であれば男が何者であるのか、理解し得るには十分だった。
名を、平和島静雄。池袋の名物、自動喧嘩人形、暴力の権化、喧嘩を売ってはいけない一般人と、凡そ平和的でない代名詞を欲しい侭にする男の、機嫌を誰が損ねたいと言うのだろうか。
触らぬ神に祟り有り。残念ながら遠巻きにしていた所で何所から標識や自販機が飛んでくるか知れない日常を生きる人々は、出来得る事なら近くにさえ寄りたくないのが本音だろう。
波を妨げた壁にどうにか触れぬよう、非力と平凡平穏を切望する彼等は慎重に避けて通った。それが魔神の視界に入っているか否かなど通り過ぎてしまえばどうでも良い事だ。
敢えてぶつかりいちゃもんをつけようと言う愚かしい勇者も居はしたが、鬱陶しげに払った静雄の一撃でアッサリとビルの壁と熱烈なベーゼを交わす事になった。
そうして、数分が経った頃。いい加減に動かねばならないと、億劫に片足を前に出そうとしていたその正面に、人影が立っている事に静雄は気付いた。
「あれ?静雄さん?」
誰もが障りにならぬようと避けて通る道の延長線上、まるで十戒の如くに割れたそこに、小柄な少年が立っており、そして更に、静雄の名を呼んだ。
小首を傾げて静雄を見上げる少年を見止め、銜えたままの煙草を徐に下ろし、ゆるりと、仏頂面に珍しい、仄かな笑みを浮かべた男は、少年に己から近付く。
「よう、竜ヶ峰。」
応えて少年も、ふわりと、嬉しげに、優しげに、笑った。





 近くにあった自動販売機は先日静雄が喧嘩と称するべきかは疑問だが、兎に角その際に破壊してしまった為、業者が新たなものを設置したようだった。
近年自動販売機での購入売上が下落の一途を辿るとチラリと耳にしたが、それならば売上の見込みの薄いものを態々設置せずとも良い様にも思ったが、それに関して自分がどうこう出来る事でも無いなと、少年は買った2つ分のペットボトルを持ちベンチへと歩み寄った。
「はい、静雄さん、どうぞ。」
「あぁ、悪ぃな。」
財布を出そうとする行動に、少年は待ったを掛ける。
「いりません。僕の我儘で静雄さんに御付き合い頂いているんですから、奢らせて下さい。」
でも、と渋る静雄に苦笑して、「それならまた今度、何所か一緒に、ご飯でも食べに行きませんか?それでお相子です。」、と妥協策を提示して、冷たいスポーツドリンクを渡した。


『静雄さん、今お時間ありますか?』
簡易な挨拶を交わした後、静雄の顔をじっと見上げてからそう言って少年、竜ヶ峰帝人は、やはり人好きのする笑顔を浮かべて時計を指差した。
『んあ? あぁ、まぁ、仕事にはまだあるけど・・・』
それが何、と問おうとする静雄に帝人はごく自然な動作で手を差し出すと、サングラス越しに瞠目する静雄に向かい、無邪気に言った。
『それなら、ちょっと僕に付き合って貰えませんか?』
そうして帝人は静雄を連れ、そこから程近い公園へと足を伸ばしていた。


夏も本番に近付き、日々陽射しの強さは増すばかりだ。
眩しい光に目を細めつつ、公園に設えられたベンチから見る青空は、緑の木々に阻まれて幾分か優しく見えた。
穏やかな午後。鳥の囀りと、木々の戦ぎと、緩やかな風だけが吹き抜ける、日常の一幕。
池袋の街の喧騒から一線を画し、まるで別世界に居るような心地を味わいながら、青年は無粋な煙草の火を吸い殻入れに放り込む。
人の声のしない、より正確に言えば、静雄の逆鱗に触れるような光景が眼前に広がらない、普遍的と言っても良い。
何と言う理想的な風景なのだろう、今は遠い、願う世界が目の前に広がる様に、静雄の心が凪いで行った。
と、同時に、まるで静雄の心を読んでいたかのように、静かですね、と帝人が声を掛ける。
「僕は地元が田舎なので、こう言う光景の方が見慣れてるんです。何も無い世界が嫌で、何かが手に入るかと思って上京して来たのに、時々、凄く恋しくなるんですよね。」
矛盾してますよね、と、苦く笑う後輩の顔を、静雄は見詰めた。

少年、竜ヶ峰帝人は、ここ池袋で生きるに当たりあまりにも白すぎる子ども、と言うのが静雄の現在にまで至る少年の印象である。
静雄の母校とも言える来良学園は私服登校可の学校だが、真面目を体現しているかの如く着崩す事さえせずに身に纏う制服であるとか。
染める事などありえないと言わんばかりの黒く艶やかな髪に、さっぱりとカットされた短髪であるとか。
高校生と言うには聊か幼い顔立ちであるとか、傷の付かない耳であるとか。
そうした1つ1つから少年の人となりが見え、加えてその気質は、やはり真面目でありよく人の機微を悟り、そして笑顔を絶やさない愛され型だった。
元より静雄は自分を慕ってくる者や素直な者には牙を向け難い。帝人はその点静雄の眼鏡に適ったと言っても良かった。
良く笑い、静雄に関わり、自分から声を掛け、決して静雄の逆鱗に触れない少年の適度な距離が。
離し難いと静雄に思わせる程には、功を奏した。
だからこその感情だろうか、と、静雄は帝人と接点を持つ度にこれまで感じた事の無い波に苛まれるが、今は横に置いておく。

「あぁ・・・、その気持ち、分かる。」
「そうですか。良かったです。池袋が嫌なんだって訳じゃないんですけど、偶には静かな所でゆっくりしたいな、って。同じ様に静雄さんが思ってくれて、僕も嬉しいですよ。」
言って、帝人はペットボトルのお茶を飲む。互いの好みやこうした些細な拘りを知っている程度に、2人は良く会っていた。
少年が白いと言うのは、何も知らないと言う事では無い。少なくとも純粋では無いのだろうと、何とはなしに静雄は感じていた。
無知であるならば、帝人は静雄に関わりなど持とうとしないだろう。帝人は賢い、そして何か恐らく、闇を抱えている。
それが一体何か、何所まで踏み込んでも良いのか戸惑う静雄には訊けない問いでもあった。
更に不思議な事に、帝人は、そうして静雄が少年の何かを無意識に感じ取っているように、静雄の葛藤もまた、見透かしているのだった。

ふぅ、と息を吐いて、帝人はぼんやりと前を見た。
漂う空気は長閑そのもので、流れる時を全身で感じているようだった。
焦らせないことと、待つこと。帝人が静雄に遣っている気の最たる事だ。
焦燥はあまり良い結果を齎さない事を、帝人は知っている。
ゆっくり、ゆっくり。人それぞれのペースで構わないから、と。
帝人と静雄が初めて会った時に言った言葉だ。ゆっくりで良いから、僕と知り合いに、お友達に、なってくれませんか。
その言を、帝人は決して違え無い。静雄が帝人を気に入った理由の一端がここにあった。





「・・・・・・あのよぉ。」