僕を呼ぶ君の声が聴こえた
暫く間を置き、無言の心地良い空間にポツリと零されたのは、静雄の迷いある呼び掛けだった。
隣に座る少年は視線を青年に向け、視線で応える。
青年は口籠りながら、酷く言い難そうに、あたかも懺悔を告白してるかの如く、呟いた。
「俺は・・・暴力が嫌いなんだ。静かに過ごしたい、んだ。・・・けどよぉ、お前もやっぱり、無理だって、思うか?」
帝人と会う数十分前、静雄は堪え切れず、また暴力を振るってしまった。
薄暗い路地で1人の学生相手に取り囲んで恐喝をするような連中が、偶々目に入ってしまったからだ。
それまでの静雄は比較的穏やかであり、仕事に行く前の時間、散歩兼買い物がてらに道を歩いていた時の事だった。
普段の静雄であれば目もくれない。そう言った社会正義を振り翳せる程真っ当な職に就いている訳でも、また義理も無いのに他人を気遣う尽力も持ち合わせていないのだから。
ただ、その目に飛び込んだ色が、静雄の足を止めるに十分だった。逡巡した後、歩み寄って裏路地の入り口を占領する集団の1人の肩を掴んで奥へと放り投げた。
『テメェら、昼間っから下らねぇ事してんじゃねぇよ。金が欲しかったら働け。』
集団から見た静雄の姿は逆光になっており詳しくは分からなかっただろうが、仲間が吹っ飛ばされた光景を目にした1人が、「平和島静雄だ!」、と叫んだ。
途端、蜘蛛の子を散らすように逃げの一手に投じた青年達を、苛立ち紛れの溜息1つで見逃し、未だへたり込んでいる少年に目を向けた。
大丈夫か、と声を掛けようとした所で、恐怖で引き攣った声が静雄の鼓膜を震わせる。
『ばっ、化け物!!』
ピタリと、静雄の動きが止まった瞬間に、少年は腰を抜かしながらも辛々逃げ出した。
残された静雄は、その背が消えて見えなくなるまで、その場を動けなかった。
静雄がカツアゲ現場に介入した理由。それは、少年の制服が見慣れた青色だったからだ。
その上、少し風貌が似ていた。だから、見捨てておけなかったのだ。
被せて見ていた訳では無い。しかしながら、少年を見て何時も自分に笑顔を向ける帝人を思い出さなかったと言ったら嘘になる。
その結果が、拒絶だった。分かっていた事、帝人が特殊な例なのであり、普通の反応はアレが正しいのだと。
分かっていても苦しかったのは、帝人との馴れ合いが過ぎたせいなのか。
沈み込んだ気持ちも浮上せず、当て所無く彷徨う静雄を拾ったのも、やはり帝人だったのだ。
静雄の視線が帝人と交わる事は無い。静雄は目の前にある噴水から水が噴き出すのをぼんやりと見ている。
帝人も再び前を向き、同じものを見る。否、揃って視界に映している物を見ているかと言えば、そうではなかった。
帝人は答えを探る様に首を傾げて悩み、静雄は言葉を発さず帝人の応えを待った。
時が、過ぎる。
帝人が静雄を急かさないように、静雄も結論を急ぎはしない。互いに無理がない付き合いを、これが両者の間にある基本スタンスだ。
やがて小さく、しかし隣席の静雄には聞こえる程度に、帝人が言葉を落とした。
「やっぱり、そう言うのって、個人次第だと、僕は思うんです。静雄さんがそうありたいと思うなら、僕は可能だと思います。」
諭すような、迷うような、それでいてただ自分の感想を述べているだけのような、様々な角度から捉える事が出来るような声音だった。
「俺、次第・・・?」
「えぇ。 ほら、良く名は体を表すと言うでしょう?あれって、僕はちょっと違うんじゃないかな、って。」
言って、ふんわりと帝人は笑んだ。眼元はとても、優しい。
「名が体を表すんじゃなくて、名に相応しくなる為に、努力しなきゃならないんじゃないでしょうか。」
誰だって、皆、名に劣らないようにしてるんじゃないかな、と、少年は苦笑する。
「ファーストネームって、だって、こう言う子に育って欲しいって言う、親が子どもに送る最初のプレゼントじゃないですか。」
静雄は、そう言えば遠い昔、彼がまだ小学生だった頃に担任が言っていたような気がするなと、朧げな記憶を浚った。
「名前負けとか言われるとカチンと来ますけど、そう考えると、自分は名に恥じない人間にならなきゃなんないんだな、って思います。」
「・・・・・・でもよぉ・・・」
「静雄さんの場合だと、静雄さんの周りが静かになれば、必然的に平和になりますよね。それは、静雄さんがそうなるように頑張れば、なると僕は思います。少なくとも、僕よりは難しい事じゃ無いと思うんですけど。」
全く何を考えてこんな名前を付けたんでしょうね、と、呆れたように少年は溜息を吐いた。
「皆さん、静雄さんの悪い部分にばかり目が行っちゃって良い面が見えてないからそう言ってるだけですよ。本当の静雄さんが優しくて温かい人なんだって、僕はちゃんと知ってます。知ってる人だって居るんですから。」
ふと手に温かい感触を感じて、静雄は驚き思わず帝人に目を向けた。
帝人は静雄に向かってはにかみ、静雄の手を取ると両手でゆるく握った。
夏の暑さが、一瞬だけ遠のいた。
「ねぇ、静雄さん。諦めずに、頑張ってみませんか?1人が大変だと言うなら、僕もお手伝いします。もし良ければ、ですが。」
だから、そんな顔しないで下さいと、帝人は口には出さず静雄のサングラスを隔てた向こうの澄んだ瞳を真摯に見詰めた。
ささやかとも言えた周囲の音が、一斉に消えた気がした。
世界は今、たった2人だけ。そう錯覚する程、静雄には目の前の少年しか見えなかった。
一緒に、そう漏らされた一言が、じんわりと体中を駆け巡る。
ゆるゆると昇る体温をそのままに、コクリと首を縦に振った青年を見て、少年は、破顔した。
気が付けば、青に橙が混じり始める時刻になっていた。
快い空気に身を任せていると時間感覚が狂ってしまう。静雄は携帯で時刻を確認し、仕事に行く支度をしなければ、と嘆息した。
あれから特に、これと言った会話をした訳ではない。沈黙が苦にならない間柄であるが故、時折世間話程度に言葉を交わした位だ。
その間、通りすがりの住人がバーテンダー服と制服姿の少年と言う異色の組み合わせにぎょっと目を剥いて去って行ったが、静雄は何時もの事である上に隣に居るのが帝人である事も手伝い、特に気にする事も無かった。
静雄が携帯を見た事で、帝人も手に嵌めた腕時計を確認する。
「わっ、もうこんな時間だったんですね!全然気付かなかった・・・」
あはは、と苦笑する少年は大人びた思考の割にやはり幼い。
「済みません、静雄さんもお仕事があるのにこんな時間まで・・・お付き合い下さって有難う御座いました。」
ベンチに座る少年が頭を下げる。
「いや・・・俺も、良い時間を過ごさせて貰ったから・・・」
ゆるりと笑みを浮かべた青年に、帝人の頬に朱が差した。
「あっ、そっ、その・・・それでは、長々と失礼しました!」
言うや否や立ち上がって去って行こうとする帝人の背に先程の光景が重なる。
殆ど衝動的に、静雄は帝人の腕を掴んで引き止めていた。
「しっ、静雄さ、ん?」
困惑だけではない感情を顔に出す帝人の姿に、静雄は――――――・・・・・・
「なぁ、もう俺、お前の事手放せそうにねぇんだけど、どうしたら良い?」
作品名:僕を呼ぶ君の声が聴こえた 作家名:Kake-rA