ハルを愛する人
ビリリッ、と壁に貼られたカレンダーを1枚破る。
「4月・・・・・・か」
“1月は行く、2月は逃げる、3月は去る”と云うが、実に月日の
流れとは、早いものである。
ついこの間、新年を迎えたかと思ったのに、既にあれから3ヶ月
が経過しているというのか。
着慣れた背広に腕を通しながら、ふとそんなことを思う。
ネクタイを結ぶため、年季の入った洋服箪笥に備え付けられた
鏡を見れば、そこには疲れきった顔をした青年が映っている。
その青年こそが私こと、栗原一止であった。
誤解せぬよう言っておこう。
私がこんなに寝不足で疲れているのは、二日酔いのためでも、
ましてや夜遊びのためでもない。
厳然たる仕事のためである。
私の職業は、内科医だ。
長野県は松本平に位置する、本庄病院に勤務して、今日で丁度
6年目になる。
勤務先である本庄病院は、“24時間、365日対応”という実に
素晴らしい理念を掲げている。
そう、その理念たるや素晴らしい。
正に現代医療の理想を体現している。
----------しかし、である。
慢性的な医者不足と、昼夜を問わない医療活動。
それによる医師一人一人における超過重労働・・・・・・。
そこには、現代医療が抱える“現実”があった。
「ふわあ・・・・・・」
欠伸をすると共に、洋服箪笥の扉を閉める。
部屋の時計を見れば、午前8時を指していた。
(5時間か・・・・・・。昨夜は眠れた方だな)
週の半分は病院で寝泊りし、たまに帰れたとしても、帰宅時間
は深夜を過ぎる。
過酷ともいえる多忙な日々が、私にとっての日常であった。
「ハル、行ってくる」
と、私は細君であるハルに声をかけるが、十二畳一間の部屋に
姿はなく、布団のみが残されていた。
・・・・・・はて?
私が起きだす直前までは、そこに寝ていたはずなのだが、厠に
でも行っているのだろうか?
細君の榛名は、世界をまたにかけて活躍する、山岳写真家だ。
一見すると華奢で小柄な少女然とした彼女ではあるが、数十キ
ロもの機材を抱えながら、数千メートル級の山々を登頂し、見事
な写真を撮ってくる。
“人は見かけによらない”を地でいく、細君なのである。
しばし細君の帰りを待ってみるが、一向に戻ってくる気配がな
い。
いつものように見送ってもらえないことに、一抹の寂しさを覚
えながらも、これ以上ここにいては遅刻してしまう。
仕方なく私は、細君の見送りも無いまま、鞄を片手に御嶽荘を
出た。
目が回るような怒涛の午前の外来と回診を終え、今はようやく
迎えた昼休みである。
しかしそれも、いつ鳴るとも知れぬ院内PHSによる緊急の呼
び出しにより、中断させられるともわからない。
そんな貴重な昼休みに医局でカップラーメンを喉に流しこんで
いると、“それ”はやって来た。
「どうした、一止。今日は一段と不機嫌そうだな」
「まあな。今しがた現れた暑苦しい大男のせいで、私の機嫌は
見事に急降下だよ」
そんな私の言葉をどう受け取ったのか、目の前の色黒男は、
「ははは。相変わらずだなあ、お前は」
と、豪快に笑う。
何がどう相変わらずなのか、さっぱりわからない。
どうでも良いことだが、奴の名は砂山次郎と云う。
信濃大学医学部生時代からの同窓で、何の因縁があってか、今
もまた同じ病院で働いている。
まったく有難くないことながら、俗に言う“腐れ縁”という奴
らしい。
いちいち相手にするのも疲れるし、時間が勿体無いので無視し
ていると、次郎は構わずにどっかりと、私の目の前に腰を下ろし
た。
その手には、世にも恐ろしい“砂山ブレンド”が握られている。
「・・・・・・で、榛名ちゃんと何かあったのか?」
・・・・・・
静かに流れる、数秒の間。
一体、いきなり何を言い出すのだ、この大男は。
私が呆れて何も言えないでいることを良いことに、黒い巨体は
勝手に何やら喋り続けている。
「お前は医者として、大抵のことには冷静だ。そりゃもう、腹
立たしい位にな。だが、しかし!一つだけ例外がある」
何の根拠があってか知らないが、自信たっぷりに次郎は言う。
「それはズバリ、お前が愛する榛名ちゃんに関する時だ!!」
難解な推理を紐解いた名探偵の如く、次郎は叫んだ。
・・・・・・ズルズルズル。
一旦静かになった医局に、私が啜るラーメンの音だけが響く。
「無視しないでくれよ、一止おおおおおっ!!」
食事中に肩をガクガク揺すられ、私は思わず吐きそうになる。
「やめぬか、このアホウ!」
私は黒い恐竜の様な巨漢を突き放すと、食道を逆流しかけた
ラーメンを何とか胃に押し込んだ。
「私は別に不機嫌などになっていない。それにいつも冷静だ。
ハルが関係あっても無くてもな。ただ・・・・・・」
「ただ?」
最後に呟いた私の一言に、次郎は耳聡く反応する。
「ただ、昨夜数日振りに家に帰ったのだが、結局ハルと言葉を
交わすことができなかった。今朝は姿も見ていない。
・・・・・・それだけのことだ」
憮然とした表情で、私は答える。
まったく、何だって私はこんな事をこの男に言わなければならん
のだ。
「“それだけ”ってお前、それで朝から寂しくていじけてたの
か!?」
ぶわっはっはっはっと、次郎の無遠慮な大爆笑が医局中に響き
渡る。
・・・・・・だから嫌だったのだ、此奴に話すのは。
私が黙って食べ終えたカップラーメンを片付けていると、笑い
過ぎて涙目になった次郎が言った。
「いやあ、笑って悪かったよ、一止。だからそう怒るなって」
「別に怒ってなどいない」
「怒ってるじゃねえか」
「だから、怒ってなどいないと・・・・・・」
と、ここで私の携帯電話が鳴った。
院内PHSではない、即ち外部からの連絡である。
「もしもし」
いつもよりやや低い声音で通話に出ると、受話器の向こうの相手
は、かなり慌てた様子でこう言った。
「大変だ、ドクトル!榛名姫が!!」
私はこれだけ聞くと、携帯電話を握り締めたまま、すぐに医局を
飛び出した。
だから私はこの時、
「あれが冷静、ねえ・・・・・・」
と言う、次郎の苦笑交じりの台詞を聞いていない。
白衣をひらめかせながら、病院の白い廊下をひた走る。
無論、他の患者たちにぶつからない様に注意はするが、主任看護
師である東西の怒鳴り声は届かなかった。
この時、私の頭からは午後の診療だとか、他の患者たちのことは
全て追い出されてしまっていた。
(ハル・・・・・・!!)
今はただ、早くあの笑顔に会いたい。
どんなに疲れ果てていても、必ず私を癒し、勇気付けてくれるあ
の笑顔に。
その一心で、私は御嶽荘まで全速力で走り続けた。
「ハル!!」
御嶽荘、桜の間----------
軋む廊下を駆け抜け、我が家へと続く襖を開け放つ。
十二畳一間の部屋に入れば、そこには---------、
「イチさん!?」