ハルを愛する人
いつもならとっくに起き出し、家事や写真の仕事などをしている
はずの細君が、赤い顔をして布団に臥せっていた。
白衣を着たまま、息を切らして立っている私を見て、細君のハル
は目を丸くしている。
相当に驚愕しているようだが、無理もない。
何故なら、私自身でさえこの状況に驚いているのだから。
「どうしたんですか?病院のお仕事は?・・・・・・あっ、もし
かして男爵さまがイチさんに連絡してしまったんですか?」
驚きながらも、細君は状況を読むのに長けている。
私を前に、上体を起こそうとする細君を「寝てて良い」と手で制
しながら、私は布団の横に腰を下ろした。
私は黙ったまま、うっすらと汗が滲んだ細君の額に手を遣る。相
当に熱い。
「昨日、駅前で偶然砂山先生にお会いした時に、風邪を引きかけ
ているようだから気をつけなさいと言われて、昨夜は薬を飲んで早
く寝たんですが、結局・・・・・・」
布団から顔を出し、まるでいたずらがバレてしまった子供の様に、
ハルが笑う。
「風邪、引いちゃいました」
・・・・・・成程、だから次郎は先刻、いきなり細君の話題を出
してきたのか。
はっきりと細君が風邪を引いていると告げなかったのは、私に知
らせたくないと思っている細君に、気を遣ったのであろう。
そして、細君は・・・・・・
「すまなかった。私に気を遣わせてしまったのだな」
今朝、細君が姿を現さなかった事を暗に仄めかしながら、私は言
う。
細君は出勤前の私に余計な心配をかけまいと、どこかに姿を消し
ていたのだ。
それに対して、私は・・・・・・
いくら病院の激務に疲労困憊していたとはいえ、昨夜の時点で細
君の風邪に気付いてやれなかったとは・・・・・・。
なんたる失態であろう。
医者としても、夫としても失格である。
「そんな顔をしないで下さい、イチさん。私なら、大丈夫です。
ただの風邪ですから」
自分を責める私を励ますかの様に、細君が言う。
熱を帯びてうるんだその眼差しは、どこまでも優しい。
「アホウ、“風邪は万病の元”と云うのだぞ!?風邪をナメては
いけない」
照れ隠しにそう言う私に、細君はくすっと、笑いをこぼしながら、
「何だかイチさん、お医者様みたいですね」
と、冗談を言う。
「私は医者だ」
わざとらしく白衣の襟を正しながら、私はそう返した。
心地よい僅かな沈黙の後、再び細君が口を開く。
「ありがとうございます。私のために、病院から駆けつけて下さっ
て・・・・・・。
病院の患者さんたちに悪いって思うのに、私・・・・・・やっぱり嬉
しいです」
穏やかな笑顔と共に、細君がそう言った。
私は毎日、多忙な医者としての仕事に追われ、細君も山岳写真家の
仕事で一度どこかの山に向かえば、一週間は戻らない。
こうして二人向き合って、ゆっくりと言葉を交わしたのは、実に久
し振りのことであった。
お互い仕事を持つ身とはいえ、この細君には何度も寂しい思いをさ
せてしまっていることだろう。
それでも細君は、幸せそうに微笑む。
丁度今、この瞬間の様に。
「私、山に登って写真を撮るのは大好きなんですけれど、それでも
時々すごく大変な時があるんです」
不意に、視線を私から天井へと移しながら、ハルが突然そんな事を
言う。
その視線の先には、悠然と構える数千メートル級の山々が広がって
いるのだろうか。
たくさんのカメラやフィルムを抱えながら、険しい山道を登るのだ。
雪山が危険なことなど、素人の私にだってわかる。
山岳写真家がその道のプロとはいえ、その仕事が命掛けである事に
変わりはない。
「四千メートルの雪山を登っている時に吹雪に遭って、進むのを諦
めそうになったことがあるんです」
仕事の愚痴など、滅多に言わぬ細君だ。
当然この話を聞くのは、初めてである。
私は内心驚きつつも、黙って細君の言葉に耳を傾けた。
「でもそんな時、ふとイチさんの顔が浮かんできたんです」
「私の?」
問い返す私に、細君は一つ頷く。
「イチさんの事を思い出したら、何だか無性に帰りたくなったんです。
イチさんがいる、この場所に。そうしたら、前に進む勇気と力が湧いて
きたんですよ」
いつの間にか私は、再び細君の真っ直ぐな瞳に、見つめられていた。
「私はとても幸せ者です。こうして、帰りたいと思える場所に、いら
れるんですから」
“ありがとうございます”と付け加え、幸せそうに微笑む細君。
細君の顔は風邪による熱のために赤いのだが、風邪をひいていない私
まで、顔が赤くなりそうだった。
「礼を言うのは私の方だぞ、ハル」
内心の嬉しさを悟らせまいと、私はわざと憮然と言い放つ。
「私の方こそ、いつもハルには助けられている。感謝しなければなら
ないのは、私の方だ」
事実、そうなのである。
徹夜が何日続こうと、毎日人の生死に携わり、時に避けられぬ“死”
という壁が眼前に立ち塞がろうとも・・・・・・。
ハルがいてくれればそれで、私は幸せなのだ。
そう心から思うが、なかなかどうして口にするのは難しい。
それでも、時にはちゃんと言葉にせねばなるまい。
「ありがとう、ハル。私も幸せ者だ」
・・・・・・すー。すー。
プロポーズ並みに勇気を振り絞って出した私の言葉に応えたのは、
細君の安らかな寝息であった。
思わぬ結末に、私はただ苦笑するしかない。
「おやすみ、ハル」
そう言って細君の頬に手を触れると、その穏やかな微笑はより深
くなった様な気がした。
細君が眠った後、私は再び病院に戻り、滞らせてしまった業務をこ
なした。
当然、有能な看護師である東西の小言を聞くハメになったが、細君
と過ごせた数時間に比べれば、瑣末なことである。
業務終了まであと一息という所で、その黒い大男はやって来た。砂
山次郎である。
「よお。どうだった、ハルちゃんの具合は?」
事情知ったるといった調子で、次郎が目の前のソファに座った。
ほんの数時間とはいえ、病院から緊急の呼び出しがかからなかった
のは、この男のお陰によるものだろう。
「お前に言う礼の言葉など、持ち合わせてはおらんぞ。・・・・・・
感謝はしているがな」
「どっちだよ!?」
ビシッと、漫才師のツッコミの如く、次郎は腕を振る。
パソコンの電源を落としていると、次郎がニヤリと笑って言った。
「たまには良いもんだろう?」
「何がだ?」
「自分の気持ちに正直に行動するってことがさ」
「・・・・・・」
私の沈黙に構わず、次郎は続ける。
「お前は偏屈な上に変人だからな。いくらお前とハルちゃんが周り
も羨む鴛鴦夫婦とはいえ、たまにはちゃんと気の利いた台詞を言った
りしてだな・・・・・・っておい、一止!!」
何故私が独身男である此奴に夫婦関係の事を説かれねばならいのか、
さっぱりわからない。
私は帰り支度を終えると、まだ何か喚いている次郎を置いて、医局
を後にした。