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撫でて、さわらないで

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線路下の小さなトンネルは空気が冷えていた。しゃがむ俺の視界の左端に、青空が垣間見えている。サングラスを外さないと気付かない事だが、夏に差し掛かった今の時期に良く見合う青だ。比べてトンネル内はいかにも晴れがましくない様子で、薄暗く湿っている。でも俺はこちらの方も割りと嫌いではなかった。何となく落ち着く。缶コーヒーを啜りながら野暮ったい仕事の小休止をする分には、丁度良い具合に陰気臭くて清涼だ。トムさんは、立ったまま癖の強い煙草を吸っている。多分、ラッキー・ストライク。買いに走るのは俺の役目だ。眉間に少しばかりシワを寄せる横顔はいかにもチンピラと言った体で、しかしそれでいて下品ではなくて、随分と様になっている。俺はつい目をやってしまう。格好良い人だ、と離せなくなる。言葉に伴う感情が少しだけ変わった気はするが、ガキの頃から幾度となく思ってきた事だ。ふとした時に浮かぶ、感想のようなものである。ドレッドは今の時期蒸れないのだろうか。そんな事を考えてみたりする。
俺は、俺が俺であることに諦念を抱きこそすれ疑念を感じたことなど無かった。昔からそんな感傷的なものには縁もゆかりも興味も費やす時間も無かった。それを、この人は真逆にしてしまった。
俺は俺と言う化け物として労働の対価である衣食住を得、またその労働を必要とされ彼の側に居り、何より彼の側に居るために化け物の俺を実に有意義に「利用」しているため諦念は知らぬ間に淘汰された。それら全てに契機を与えたのは、他ならぬ彼である。そうなってしまった理由は解らない。時期も知らない。しかし俺の思考は既に彼の存在によって構成されており、もう俺ひとりでは「俺」そのものが成り立たないような気になっている。例えば彼が突然いなくなったとして、俺の体から芯が抜け出て体が煙になって、次の瞬間には空気になって跡形も無く消えてしまう、そんな様子がたまに脳裏をよぎるのだ。二十を過ぎた男が何と少女趣味な妄想だろう。全く目も当てられないが、笑い飛ばしてしまえば慰みにもなろう事なので放って置いている。
「……そんな見んなって」
気付くとトムさんが俺を見下ろしていた。
「え、……あ、すんません。ボッとしてました」
「別にいいけどもよ、照れんだろが」
全く照れているようには見えない顔だ。可笑しそうに笑って、また煙草を唇に挟んだ。しかし今度は視線が俺から離れない。少しの間があって、トムさんが口を開いた。
「飲み終わった?コーヒー」
「え」
「ほら、灰皿、ねーから。代わりに空き缶」
「ああ、ちょっと、待ってください」
いつもなら吸殻など気にせずその辺に放ってしまうのに珍しいとは思ったが、俺は忙しいので口に出す暇は無い。三分の一程残った缶の中身を一気に飲み干した。特有のすっとした香りが舌から鼻を通る。
「うす」
「おう、あんがとよ」
手で受け取る、より先に、頭をわしわしと撫でられた。瞬間、俺の意識はその手に集中する。骨張っていて意外に大きいその手から、俺を駆け巡る高揚感は痛みよりも重厚で見境が無い。彼に触れられることで俺の肉体は充謐を得ている、ような錯覚を起こす。
だからこそ俺はトムさんに触れられると困ってしまう。トムさんの掌は、肉体ごと俺の心をも包んでしまう。触れられれば触れたくなる。俺は自身を止める事が出来なくなりそうだ。そして歯止めが効かなくなった俺を思い浮かべては、彼の側に居られなくなる事を案じている。居場所の喪失を危惧して恐ろしくなる。俺は、この人の側にいる他に存在する術が無い。なので俺は、彼の手が怖い。俺の内側から全てをさらけ出してしまいそうな、無意識のその手が怖い。……触れられなければ消えてしまうくせに。畢竟、気取られるのが怖いだけなのだ。その時には全てが終わる。報われない後ろめたい、俺に似合わぬこんな想いなど、どこぞへ飛ばされてしまえば良いものを。
俺に見放された俺とは一体何なのだろう、と考える。考えた所でトムさんは見放してなどくれないのだ。そんな彼の優しさに取り縋る、したたかな俺。優しいその手が俺の頭を撫でる事を期待と確信を以て待ち望む、狡猾な俺。俺を満たすのが彼の手だけなのだとしたら、この手に触れられていない間の俺とは何だ。無か。消えるのは、怖えな。
もう何度目か分からないそんな問答をぼんやりと頭に浮かべていると、トムさんの手が、上から左の頬に降りて来た。それに遮られて俺の視界から青空が消える。何気無く起きたその動きに、俺は少し動揺する。温かさが直接伝わって来て、いつも以上に体が緩む。そして困ってしまう。不自然な顔をしてしまってはいないだろうか。下向き加減で表情を隠した。
しかしそのせいで俺は、彼が体を屈めたのに気付けなかった。斜光が遮られて視界が暗くなっていく。気付いて目線を上げると、急に近づいた上司の顔。驚いて息を止めた。違う。意図せずとも止まっていた。彼の目が、薄く楽しげに笑っている。もう既に広い影が俺を覆ってしまっていて、俺はいよいよ何も分からなくなる。
「え」
呼吸の出来ない喉から、かろうじて声が出たが、続く言葉を言う間は無い。俺の声は、彼の唇に塞がれていた。
唐突な事に、身動きが取れなかった。はね除ける事も、反射的に閉じてしまった目を開く事も出来ない。これはどういう事なのだろうか、分からなくて、ただ動けない。触れただけの彼の唇から細い息が俺の口許を掠めて、生身の人間の熱さを思い出させた。生々しさに身震いを起こす。この人は、どうして、こうも俺を掻き回すのだろう。
これが何なのか、本当は分からない訳ではないのだ。簡単な事だ。いつもの悪ふざけ。他意は決して無い、と、分かっているのにこのたかが数秒が長過ぎる。そんな風に感じる自分が、酷く哀れだ。動けないのは、確かな幸福感に支配されているから。しかしそれすらも、俺にとっては不穏の果てなのだ。今この瞬間に、この人の唇の柔らかさを知っているのは俺だけだった。何も分からないふりをする。そうしていれば感情が暴発する事もないだろうと半ば願望を込めて思う。
悪夢のように濃い時間の中で、五官は全て目前に居るの上司に支配され、息も出来ない。それでいて終わって欲しくは無いのだ。本当は、このまま触れていて欲しいのだ。彼と等しい空気に浸っていた。直ぐ目の前に、彼の肌を感じている。熱い指が俺の頬を溶かすように包み込んでいる。そのまま溶けてしまえば良いと思うけれど、そんな事がある筈が無い事は知っていたので思うだけだ。この人が好きだった。この人を好きな俺だけが俺だった。紛れもない俺の存在を噛みしめて、それを明らかにする彼を想う。顔を見てみたいと思ったが、目蓋を上げる事は、やはり出来なかった。

作品名:撫でて、さわらないで 作家名:空耳