僕を狂わせる存在
「あの…笑わないで聞いてくれるかな」
沈黙を破ったのは、未だにどぎまぎとした態度の相馬。
その声に我に返った俺は、慌てて口を開く。
「あ…あ、ああ…内容によりけりだけどな」
「ちょっ何それ?酷いなぁ!じゃあ、言わない」
ぷいっとそっぽを向いて頬を膨らます様に、お前は子供か、と突っ込みたくなるが、それは今は置いておくことにする。
「わかった。笑わねぇから、言ってみろ」
「うん…あのね、俺、今虫歯なんだ。だから、…き、キスしたら、移っちゃうって聞いたから、何が何でも阻止しなきゃって思って…って佐藤君、笑ってるよね、今確実に笑ってるよね?ほら、顔上げて?佐藤くーん!?」
顔は臥せているけれど、肩が震えているので丸わかりだろう。
相馬が焦ったように俺の名を呼び続けているけれど、反応すれば声を上げて笑ってしまいそうだ。
「佐藤君酷いなぁ…俺、真剣に悩んでたんだよ!?」
「わ、悪ぃ。でもな、それってただの迷信じゃねぇのかよ?」
漸く笑いの底から戻ってきた俺は、薄らと涙を浮かべながら真っ赤に染めた顔の相馬と向き合った。
少し不貞腐れる様が、今日は物凄く可愛らしく感じる。
「迷信じゃないんだって!俺も最初はそう思って気にしてなかったんだけど、確かめたくて先生に聞いてみたんだ。そしたら、『確かに、キスでも移るよ。相馬さーん、暫くキスはお預けだねーあはは~』なんて言われちゃってさ!調べてみたら、なんとか菌って言うのがあってね、それがキスをすることによって相手に移っちゃう可能性があるらしくて、」
必死に自分の正当性を説明する相馬に、愛おしさが込み上げてくる。
胸が苦しい、そう、文字で表すならば『きゅん』ってな感じだろうか。
乙女じゃあるまいし、と思いつつも、伸ばす腕は自重することを知らず、愛おしい存在を胸の中へと半ば無理矢理誘っていた。
「!?佐藤君…?」
「お前、可愛すぎ」
「なっ!?かかか可愛いなんてっ男に言う言葉じゃないからね!?というか、俺可愛くなんかないし!!」
「充分可愛い。小鳥遊が今のお前を見たら、絶対胸をときめかせてるぞ」
まぁ、こんな可愛い相馬を小鳥遊に、いや、誰かに見せるなんて失態犯さないけれど。
見せたくない、絶対に。
俺だけの可愛い恋人。
こんなこと、柄じゃないかもしれないが、そう思わずにはいられなかった。
「な、に言ってるんだよもうっ…でも、嬉しかったよ」
「?」
「いつもはさ、俺が佐藤君に強請るじゃん。だけど、今日は佐藤君の方から積極的に求めてきてくれたから」
嬉しかった、と。
腕の中で相馬が微笑むのを己の身体で感じ取る。
恐らく綺麗に微笑んでいるのだろう。
見れないことは惜しいけれど、今は抱き締めるのに精いっぱいだった。
「佐藤君、ちょっと痛い…」
「今日くらいは許しとけ」
「何それ、佐藤君横暴」
それでも黙って受け入れてくれる相馬に、込み上げてくるのは矢張り愛おしさばかり。
好きでいたい、好きでいてほしい、誰にも渡したくない、出来ることなら閉じ込めておきたい、ずっと傍にいてほしい、そして、隣で永遠に笑い続けていてほしい。
八千代を好きだと思っていた頃には感じなかった感情が、今はこれでもかと言わんばかりに溢れ出してくるから不思議だ。
人を本気で愛すると言うことは、こういうものなのだろうか。
それを教えてくれたこの愛おしい塊も、同じことを思って微笑んでくれればいいな、なんて、俺の我儘なんだろうか。
「ねぇねぇ佐藤君、虫歯が完璧に治ったら、今度こそちゃんとキスしようね」
「おー。だったら、早く治せよな」
「うん!」
佐藤君、大好き!
なんて、嬉しそうに思い切り腕を回されたりしたら、思わずキスしたくなる。
俺はそのなんとか菌が移って虫歯になろうが構わないが、そうなると相馬が悲しむのは目に見えている。
だから、相馬の気持ちを大切にして、ここは只管我慢あるのみ。
うっかり口付てしまわぬよう、痛いという抗議の声も聞かぬフリをして、抱き締める腕の力を更に強めた。
しかし、この時は我慢できたけれど。
果たして最後まで我慢が出来たかということは…また別の話。