僕を狂わせる存在
「佐藤君、俺、今日はもう帰るよ」
戻ってきていた相馬が、乾いた笑みを浮かべながらそう言った。
有無を言わさず鞄を肩にかけ去ろうとする相馬に、俺はとうとう限界を超えてしまった。
こんなに不愉快な思いをさせておいて、フォロー一つなしかよ。
そう思うが早いか、足が勝手に動き出し、やば、と顔に書いてある相馬の腕を強く引いた。
「な、何かな?俺、用事思い出しちゃってさ、早く帰りたいんだけど」
「そうか。なら、最後に」
そのまま掴んでいた腕を引っ張り、壁に押しやる。
そして、逃げ出せないように両脇を固め、ゆっくりと顔を近付けた。
常ならば「今日はえらく乗り気だね」なんて余裕の笑顔で受け入れるはずなのに、矢張り今日はどこか違っていて、全力で首をいやいやと振って拒んでいる。
「あの、ねっ!今日はその、やめないっ?」
「…何でだよ、たかがキス一つ、いいじゃねぇか」
不機嫌な低音が、相馬の焦りを余計に引き立たせているようだ。
目を忙しなく動かして、冷や汗が頬を伝っている。
「うー、ん…あのね、でも、」
「煩い。黙っとけ」
今度こそ成功させようと、少し勢いをつけて近付けた顔に、突如として強烈な痛みが走る。
相馬の頭突きがクリーンヒット。
結構な石頭だったようで、地味に痛みが引いている。
「~っ!!て、んめ、何しやがる!!」
「ご、ごめん!!大丈夫!?」
思わずしゃがみ込んでしまった俺の前に膝をつき、心配そうにおろおろと覗き込んでいる。
しめた、今ならこいつは隙だらけ。
ピンチはチャンスってやつだ。
「佐藤くーん…そんなに痛かった?あの、!?」
更に距離を縮めて覗き込んでいた相馬の腕を引っ張れば、容易く己の胸に倒れこんでくる。
その勢いのまま、ぶつけるように、しかし歯をぶつけぬ様、唇をくっ付けてやった。
眼前に広がるのは、驚きと焦りの色を放つ相馬の顔。
勝った、なんて意味のわからない優越感に浸っていると、今度は勢いよく胸を押し返され、間抜けにも後ろに倒れ尻餅をつく形となった。
「っ、ばか!佐藤君の馬鹿!!」
「馬鹿って何だよ!そんなにっ…そんなに、俺とするのが嫌だったのかよ」
ここまで拒絶反応を示され、馬鹿とまで言われた人間が傷付かないわけがない。
先程までの苛立ちは何処かへ消え去り、突如として悲しみに苛まれる。
それを見た相馬は、はっとした様子で、慌てて俺の元へと近寄ってきた。
「違うんだ!これには訳が、」
「何だよ、俺のこと嫌いになったか?それとも、他に好きな奴でも、」
「違うよ!何でそうなるんだよ!ばっかじゃないの!?」
「おまっ、また馬鹿って…!!人を何だと思ってっ」
「虫歯だから!!!」
声を荒げた俺よりも更に声を大にして、相馬が真っ直ぐと見据えてくる。
少し恥ずかしそうにピンクに染めた頬と先程の言葉。
一体どういうことなのだろう、と困った俺は、情けないことに身体を固まらせることしか出来なかった。