逢瀬の一夜
確実に光の視線にいるのは幸いにも一氏先輩、ただ一人である。気づいていないわけではないのだろうが、それを利用しないことはない。チャンスだ!と言わんばかりにソロソロとその場を立ち去ろうとしたのだが、一メートルも進めることなく光に首根っこを掴まれ、「ぐえっ」という蛙がつぶされかけたような声が口から飛び出した。確実に女扱いされていない。される事を望んでいるわけでは無いけれどもちょっと酷いのではないだろうか。
一氏先輩も首を押さえている私に「大丈夫か?」と声を掛けてくれたが、何故か光が「大丈夫ですわ」と応対していた。…もう落ち込む隙も無い。
「おい、お前…余計な事ユウジ先輩に言うとったんやないけ?」
「いや別にそんなことは…」
「ああ!そういえば光、お前ロマンチストなんやってな!」
マジでこの人一度真宝院池に落としてやろうか、と思ったがその前に私の命が危うかった。
光がいるであろう横から物凄い殺気を感じる。恐る恐る振り向くと予想通り光の目はクール飛び越えて殺し屋の目をしていた。確実に光の目は「一回いてこます」と言っている。
そしてそれは脅しじゃなくて予告だ予告。
今まで育ててくれてありがとうお父さんお母さん!
私は今、彼岸への片道切符を手にしてしまったようです。
「あは?はは、口がツルンッと滑りまして?」
「…(最悪や)」
「お前が花火好きやなんて初めて聞いたわー!ってことで花火大会行こうや!」
そう一氏先輩が言うと光は一瞬ビクッと体を揺らした後、「まあ…ええですけど」と珍しく頬を赤く染めながら先輩の提案に首を縦に振った。さっきまでの殺気はどこへやら。
それはもう幸せです、と言わんばかりにピンクのオーラをかもし出しているのが良く分かる。
しばらくすると窓の外から誰かが一氏先輩を呼ぶ声が聞こえた。
それは恐らく先輩の相方と言うダブルスパートナーの声なのであろう。一氏先輩は飛びつくように窓に近づいた後、これまた嬉しそうに手をブンブン振り返した後、さっさと教室を後にしてしまった。
呼びに来た光を置いてけぼりにして。…連れて行ってくれ!
先輩が駆け出していった足音が消えた後、光は一つため息を吐いたあと口を開いた。
殺人予告かと思わず体を固くしてしまうが、その声は何となくだけれど柔らかい。
「今回は許したる」
「…それは一氏先輩に免じて?」
「当たり前やろ」
「…光、一氏先輩泣かしたらあかんで」
「お前に言われんでも分かっとるわ。…でもまあ…」
光は小さい声で「あんがとさん」とだけ呟いて、そのまま教室の出口へと歩き出していく。
14年間生きてきたけれど、光自らお礼を言うなんて場面に立ち会ったこともされた事も無かったため思わず呆然としてしまったが、さすがに聞き間違いではない。とりあえず死刑は免れた。
それにしても本当に光は変わった。
人はここまで変われるのだ。
そんな立ち去る背中に「幸せになれよ」と叫ぶと、手をヒラヒラさせて教室を後にする。
私は光の母親か、そんな事一人心の中で突っ込みながら、窓の外に視線を向けた。
それは雲ひとつないいい天気で、明日の天気もきっと良いものになるだろう。
綺麗な夜空になりますように、私は一人呟く。
そして彼らが幸せそうに空を眺める明日が早く来ればいいな、なんて柄にも無くそう思った。