from the 35th floor
「ノットがまとまらない」
ムズカシイ顔で鏡をのぞき込んで、一護は首元のネクタイをいじくっている。
晴れ着を一式自宅から運んできて、わざわざよその家で支度して出かける予定の彼がいるのは、もちろん浦原商店の店長の私室。持ち主はロクに使いもしない姿見の前に陣取って、一護はネクタイの結び方が決まらないと試行錯誤している。
煙管片手の浦原はその後ろ姿と手元の本を半々くらいで眺めていた。
現世の住人として外出しなくてはならないときは基本的に和装で、自発的にスーツを着ることはない浦原には、ネクタイの結び目がいかに重要なのか理解できない。一護は服装にこだわるほうだから、なにか彼なりのポリシーがあるのだろうと好きにさせておいた。
(ネクタイに気をとられて、襟足に気付かない方がいいし)
光沢ある生地でできた桜色のドレスシャツの襟とオレンジ色の髪の毛の狭間、のぞく襟足に半分だけ顔を見せた赤い痕。
赤い、キスマーク。
男の付けた虫除けに、青年が気付くのはいつだろう。気付かなければそれはそれでいいと、独りごちて浦原は煙を吐く。
禁煙者の一護の着衣から煙草のにおいがするというだけで十分かも知れないが、予防線はいくら張っても足りないと言うことはないだろう。
できた、と呟いてようやく一護が鏡の前から離れた。
「…なんだよ?」
「ネクタイひとつに三○分ッスよ。時間、間に合うの?」
うわ。まじで?
腕時計で時刻を確かめて、一護は慌てて持ち物をチェックし出す。
あーそうだ袱紗、と言い置いて、一護は上着を着込みながらテッサイを探しに行った。
あのこは今夜もここに「帰って」来るんだろうか。
長い煙を吐き出して、浦原は積み上げた既成事実を喉奥で笑った。
■
一護が帰宅すると、自室の机の上に封筒が一つ載っていた。いつもの薄っぺらいダイレクトメールではない。質感のある封筒に、あああれかと心当たりを探り出す。
ワイシャツにひっかかったネクタイを抜きながら、一護は片手で封筒をひっくり返した。差出人の名字は浅野。啓吾の父はこういう名なのか。一〇年つきあってはじめて知る事実に驚く。
ネクタイを解き終えて封を切った封筒からは、金箔まで押された立派なカードが出てきた。高校からの友人の結婚披露宴の招待状だ。啓吾の相手は実家の商売を継ぐ予定のしっかりものの女性で、結婚式はイマドキらしくなくちゃんとしたものになるとは聞いていたが、いざ送られてきた招待状は想像よりも更にきちんとした式になることを予想させる品だった。
結婚。そんな単語が沸き上がっても驚く年ではない。新人ではなくなって、金銭的な計画も立って、決断には十分な年齢だろう。仲間と言える面子の中からでた結婚話は啓吾がはじめてだったが、会社の同期にはすでに結婚したり、結婚準備に入っている者もいる。招待状をもらうのも一回目ではない。
出席ハガキに記入するのは後でいいだろう。一護はワイシャツとスラックスを脱いで部屋着に着替えた。
早めに帰れた日くらい、家族で食卓を囲むに参加しなければ三者三様のブーイングをくらってしまう。毎日自宅の最寄り駅にたどり着きはしても、そこからの行き先がふたつある身としては、実家にいるときくらい家族サービスに徹さなくては、どう機嫌を損ねるかわからない。
本妻がいる本宅と、愛人がいる別宅と、家がふたつあるオヤジみたいだと評されたのは大学時代だった。あれから年数を経た今も、家がふたつあるみたいな状況は変わらない。
ダイニングに向かうために部屋のドアを開ける。自室に溜め息をひとつ置き去りにして、一護は賑やかな食卓へ急いだ。
浦原喜助という名の、元死神の強欲商人と一護がオツキアイをはじめて一○年になった。
浦原。中天に引っかかっている、今夜の三日月みたいな男。
表に出ているのは吹けば飛びそうな薄っぺらい偽装だけだが、暗闇に隠れた本体は巨大で得体が知れない。
キスして抱き合って斬り合って好きだと言った。
一〇年一緒にいた男を恋う気持ちは変わっていないけれど、でも一〇年経ってしまった。
「あのこも結婚ねぇ…」
変わらない帽子と作務衣の男が、変わらない位置で煙管に詰めた煙草に火を点ける。感心した様子の浦原はすうっと煙を吐いた。燻した煙のにおいと共に、花の香りが立ち上る。
「結婚式、多くないッスか?」
式の度に祝儀だの礼装だのと妹とここの従業員をまきこんでいるから、ぐうたら店長の記憶にも残ってしまったらしい。
「花の季節に式だなんて風流な」
招待状の日付は四月のはじめ。順調にいけば、桜は盛りだろう。
「彼女が言ったんじゃねぇの」
一護は温かいほうじ茶をすすった。外は何度目か知れない「最後の寒波」で凍えるようだ。浦原はトレードマークである緑色の作務衣一枚。あんな薄い生地で寒くはないのだろうか。毎年感じて毎年否定される疑問を思い出して、一護は煙管を支えた男の三割方露わな腕に視線を注いだ。
じっと見つめる一護の視線をどうとったのか、浦原が、からかう眼差しでこちらを見た。
「誰か結婚したい相手でもいるの?」
からかいの台詞を一護は無視した。いちいち付き合っていたら、埒があかない。
浦原から目を背けてほうじ茶の湯のみと見つめ合う一護に、男が笑いを漏らす。あからさまに反応しても、反応しないという反応を選んでも、どっちにしろ浦原には満足されてしまう。
トントン。
吸い終えた葉を煙管から取り出す音が一護の耳の注意を引く。見計らったタイミングで、浦原が口を開いた。
「それとも、」
言って男は一拍置いた。
「アタシと結婚しときます?」
発言を否定しようと一護は顔を向ける。
そして、見てしまった。細められた眼禍の奥の金翠の瞳が、諦観と情念がないまぜになったような、形容しがたい色を湛えているのを。
どうしてそんな目をするんだ、そんな。
答えを聞きたくなくて、問いかけは喉に飲み込まれた。
「黒崎、来月の土曜日当番、これでいけるか?」
年度末のスケジュールを考えだす時期の午前中、カレンダー状に印字した来月の予定表が、唐突に上司の机から一護の机に飛んできた。
土日なく営業している営業所のため、土曜は本社の営業部も持ち回りで出社することになっている。留守番電話機代わりの、相手先の名前と用件を聞いたら早見表に従って担当チームの携帯に振り分けるのが仕事の日だ。部署中で輪番のため、回ってくるのは三ヶ月に一度ほど。その滅多にない日と、啓吾の挙式日が被っていた。
「すみません、この日友人の結婚式なんで、ずらしてもらえないですか」
「おう、そんなら翌週にしとくな。…結婚式かー、黒崎お前予定は? 三年目なんだから指輪の一つや二ついる年だろう」
一護がカレンダーを確認している間に自席から移動して背後にいた上司は、パワハラだから答えなくていいぞ、と続け、一護から紙を受けとるとそのまま別の部下の机へ行ってしまった。
ムズカシイ顔で鏡をのぞき込んで、一護は首元のネクタイをいじくっている。
晴れ着を一式自宅から運んできて、わざわざよその家で支度して出かける予定の彼がいるのは、もちろん浦原商店の店長の私室。持ち主はロクに使いもしない姿見の前に陣取って、一護はネクタイの結び方が決まらないと試行錯誤している。
煙管片手の浦原はその後ろ姿と手元の本を半々くらいで眺めていた。
現世の住人として外出しなくてはならないときは基本的に和装で、自発的にスーツを着ることはない浦原には、ネクタイの結び目がいかに重要なのか理解できない。一護は服装にこだわるほうだから、なにか彼なりのポリシーがあるのだろうと好きにさせておいた。
(ネクタイに気をとられて、襟足に気付かない方がいいし)
光沢ある生地でできた桜色のドレスシャツの襟とオレンジ色の髪の毛の狭間、のぞく襟足に半分だけ顔を見せた赤い痕。
赤い、キスマーク。
男の付けた虫除けに、青年が気付くのはいつだろう。気付かなければそれはそれでいいと、独りごちて浦原は煙を吐く。
禁煙者の一護の着衣から煙草のにおいがするというだけで十分かも知れないが、予防線はいくら張っても足りないと言うことはないだろう。
できた、と呟いてようやく一護が鏡の前から離れた。
「…なんだよ?」
「ネクタイひとつに三○分ッスよ。時間、間に合うの?」
うわ。まじで?
腕時計で時刻を確かめて、一護は慌てて持ち物をチェックし出す。
あーそうだ袱紗、と言い置いて、一護は上着を着込みながらテッサイを探しに行った。
あのこは今夜もここに「帰って」来るんだろうか。
長い煙を吐き出して、浦原は積み上げた既成事実を喉奥で笑った。
■
一護が帰宅すると、自室の机の上に封筒が一つ載っていた。いつもの薄っぺらいダイレクトメールではない。質感のある封筒に、あああれかと心当たりを探り出す。
ワイシャツにひっかかったネクタイを抜きながら、一護は片手で封筒をひっくり返した。差出人の名字は浅野。啓吾の父はこういう名なのか。一〇年つきあってはじめて知る事実に驚く。
ネクタイを解き終えて封を切った封筒からは、金箔まで押された立派なカードが出てきた。高校からの友人の結婚披露宴の招待状だ。啓吾の相手は実家の商売を継ぐ予定のしっかりものの女性で、結婚式はイマドキらしくなくちゃんとしたものになるとは聞いていたが、いざ送られてきた招待状は想像よりも更にきちんとした式になることを予想させる品だった。
結婚。そんな単語が沸き上がっても驚く年ではない。新人ではなくなって、金銭的な計画も立って、決断には十分な年齢だろう。仲間と言える面子の中からでた結婚話は啓吾がはじめてだったが、会社の同期にはすでに結婚したり、結婚準備に入っている者もいる。招待状をもらうのも一回目ではない。
出席ハガキに記入するのは後でいいだろう。一護はワイシャツとスラックスを脱いで部屋着に着替えた。
早めに帰れた日くらい、家族で食卓を囲むに参加しなければ三者三様のブーイングをくらってしまう。毎日自宅の最寄り駅にたどり着きはしても、そこからの行き先がふたつある身としては、実家にいるときくらい家族サービスに徹さなくては、どう機嫌を損ねるかわからない。
本妻がいる本宅と、愛人がいる別宅と、家がふたつあるオヤジみたいだと評されたのは大学時代だった。あれから年数を経た今も、家がふたつあるみたいな状況は変わらない。
ダイニングに向かうために部屋のドアを開ける。自室に溜め息をひとつ置き去りにして、一護は賑やかな食卓へ急いだ。
浦原喜助という名の、元死神の強欲商人と一護がオツキアイをはじめて一○年になった。
浦原。中天に引っかかっている、今夜の三日月みたいな男。
表に出ているのは吹けば飛びそうな薄っぺらい偽装だけだが、暗闇に隠れた本体は巨大で得体が知れない。
キスして抱き合って斬り合って好きだと言った。
一〇年一緒にいた男を恋う気持ちは変わっていないけれど、でも一〇年経ってしまった。
「あのこも結婚ねぇ…」
変わらない帽子と作務衣の男が、変わらない位置で煙管に詰めた煙草に火を点ける。感心した様子の浦原はすうっと煙を吐いた。燻した煙のにおいと共に、花の香りが立ち上る。
「結婚式、多くないッスか?」
式の度に祝儀だの礼装だのと妹とここの従業員をまきこんでいるから、ぐうたら店長の記憶にも残ってしまったらしい。
「花の季節に式だなんて風流な」
招待状の日付は四月のはじめ。順調にいけば、桜は盛りだろう。
「彼女が言ったんじゃねぇの」
一護は温かいほうじ茶をすすった。外は何度目か知れない「最後の寒波」で凍えるようだ。浦原はトレードマークである緑色の作務衣一枚。あんな薄い生地で寒くはないのだろうか。毎年感じて毎年否定される疑問を思い出して、一護は煙管を支えた男の三割方露わな腕に視線を注いだ。
じっと見つめる一護の視線をどうとったのか、浦原が、からかう眼差しでこちらを見た。
「誰か結婚したい相手でもいるの?」
からかいの台詞を一護は無視した。いちいち付き合っていたら、埒があかない。
浦原から目を背けてほうじ茶の湯のみと見つめ合う一護に、男が笑いを漏らす。あからさまに反応しても、反応しないという反応を選んでも、どっちにしろ浦原には満足されてしまう。
トントン。
吸い終えた葉を煙管から取り出す音が一護の耳の注意を引く。見計らったタイミングで、浦原が口を開いた。
「それとも、」
言って男は一拍置いた。
「アタシと結婚しときます?」
発言を否定しようと一護は顔を向ける。
そして、見てしまった。細められた眼禍の奥の金翠の瞳が、諦観と情念がないまぜになったような、形容しがたい色を湛えているのを。
どうしてそんな目をするんだ、そんな。
答えを聞きたくなくて、問いかけは喉に飲み込まれた。
「黒崎、来月の土曜日当番、これでいけるか?」
年度末のスケジュールを考えだす時期の午前中、カレンダー状に印字した来月の予定表が、唐突に上司の机から一護の机に飛んできた。
土日なく営業している営業所のため、土曜は本社の営業部も持ち回りで出社することになっている。留守番電話機代わりの、相手先の名前と用件を聞いたら早見表に従って担当チームの携帯に振り分けるのが仕事の日だ。部署中で輪番のため、回ってくるのは三ヶ月に一度ほど。その滅多にない日と、啓吾の挙式日が被っていた。
「すみません、この日友人の結婚式なんで、ずらしてもらえないですか」
「おう、そんなら翌週にしとくな。…結婚式かー、黒崎お前予定は? 三年目なんだから指輪の一つや二ついる年だろう」
一護がカレンダーを確認している間に自席から移動して背後にいた上司は、パワハラだから答えなくていいぞ、と続け、一護から紙を受けとるとそのまま別の部下の机へ行ってしまった。
作品名:from the 35th floor 作家名:カナタアスカ