soundless / なにもきこえない
アスファルトを濡らしたのは、雨ではなかった。ただ、薄暗い中で落下するのが見えたそれが、ぽつんと地面で音を立てたような気がして。視覚的に雨に似ていて、無意識のうちに空を見上げそうになる。条件反射ってやつだ。雨に降られたところで大して厭うこともないのに。
真っ白になった目の前に引きずられ、平和島静雄は小さく呻いた。
地面で伸びている黒頭を鷲掴みにしてやろうとした矢先のことで、その手で反射的に右耳を押さえる。耳殻が触れるもそこに異常はない。咄嗟にどうしてそんな行動をとってしまったのかすらわからなかった。ただ、いつのまにか全身が硬直していて、奇妙に強張った筋肉や筋がびりびりと音を立てて引っ張られる感覚が、感電したときに少し似ていると思う。正味、それ以外は何が起きたのかさっぱりだった。
――何だ?
化物じみてロクに刃物も薬物も受け付けない体という自負は少なからずあって、動揺という動揺はなかったが、何となく無事で済んじゃいないともわかっていて、小さな混乱はある。如何せん相手は油断も隙もない奴だと身に染みていた。
仰向けに投げ伏せられた折原臨也は、彼の目下で笑っている。
その、右手。好からぬ黒い塊。
直後思いもよらぬ痛みが頸の裏を抜けて、静雄は驚愕に目を見開いた。硬直が突如解けて、両膝を強かに地面に打ちつける。そうしてやっと、平衡感覚が少し可笑しくなっているのだと気づいて、臨也が一体何をしたのかを疑心暗鬼ながらに理解できた。
鈍痛の元はやはり押さえた耳に他ならない。顎の横とか裏側と云えばいいんだろうか。とにかく、懐かしさを覚えるくらいには体の内側に入り込んだ痛みだった。
「……っ痛て…ェ……」
「ああ、そこはまだ常人並み?」
至近距離の眼前に逆さで視界に入り込んできた彼の薄い口唇がやっぱり、と軽快に動く。それだけで殺意は十分滾ったが、本能的に掴んだ細っこい両手首をアスファルトに完全に縫い付けていたので静雄の両手は塞がっていた。頭突いてやりたい。頭を振り下ろせばぶち当たる位置だ。しかし思いとどまる。
「ど、ッこで…… んな物騒なモン手に入れンだ……、なァ、臨也くん よォ……?」
ミシミシと音を立てるのは拳なのか、地面なのか、青筋なのか。とりあえず死んでくれないだろうかと思う。可及的に。有無も云わずに。
「……は、そんな涙目、に、なっちゃってー… 、 ッふ、……げほッ、ッ…ごほ、!」
喉を不規則に上下させ、顔を背けて水音混じりに臨也は咳き込んでいる。その顔色はすこぶる悪く、様子からしてどっかの内臓が損壊しているんだろうというのは容易に想像できた。思い当たる節はある。散々殺す気で追い詰めたのだ。数打てど当たらない的も、たまには当たる的になる。その手ごたえは十分あった。
「ッ……折、れる っ、 マジでい… 、ッたい って……!」
静雄の両手の中で華奢な骨が軋む。態勢からしてまともな拘束とは云えなかったが、逃してやるつもりは微塵もなかった。絶息させてやりたい。目を眇めて、引き攣る顔でにじり寄ると血の臭いが鼻を掠めた。
「ウルセぇ黙れ」
「……ぇー……?」
衰弱が目に見える。無様としか云いようがない。襤褸(ぼろ)クズだ。しかしこんな具合だのに、死んでくれた試しがないのもまた事実だった。現に今も、明らかな苦痛に顔を歪めているのに、赤い目はやたら愉しげに静雄を捉えている。際限なく込み上げてくる殺意に、今すぐ息の根を止めるという選択肢以外に正解があるとは思えない。
詰めの甘さを、今までに何度味わったか。
「情報は、あーげ、ない」
「……ぶっ殺す」
飼い馴らすつもりもない目の前の相手に対する破壊衝動はじりじりと焦げ付き、先ほどの状況を自ずと理解するにつれ、いちいち癇に障るその声も鮮明さを取り戻しつつあった。
今、周囲の音を拾っているのは左耳だ。右耳はたぶんまともに機能していない。云えば、完全にイカれていた。臨也が顔の真横付近で発砲したのだ。それは学生時代グラウンドで陸上部の奴らが使っていたような火薬式のピストルに似ていた。だが、あれじゃない。銃刀法なんて法律のある国で、これまた相当イカれた話だったが、現実はその乾いた発砲音と衝撃がまるっと右耳の機能を吹っ飛ばしていた。きいんと突き抜ける金属音が苛んで、まともに環境音すら聞き取れない。
銃を握ったままの臨也の手は静雄の手の中で血に滑り小さく痙攣していた。最初に気をとられたのは多分これだった。地面に血痕が落ちている。
血の臭いが。胸をさらう。
「かなり効くだろ?俺もとばっちり喰って、あんまり聴こえないけどさァ」
「テ、ッ、メエエェェ……ノミ蟲ぃ……」
「っふ ふ……あはは……!あーあ……、 逆転は、厳し ッねぇ……?」
入り込んだのは表通りから離れた狭い路地裏で人通りもなかった。左右のビルから投げ捨てられた吸殻や空き缶などの廃品が積もっている。その中には刃が折れ曲がった真新しいナイフも数本転がっていた。
「ふ、ッざ、けんじゃねェ……当たったら鉛中毒になるだろうが!」
「はぁ……、これ、口径の割に扱い易いらしいけど……やっぱ使うもんじゃないな」
臨也は悪びれもなく手にしたそれのセイフティを鳴らしながら腕を揺する。滴ろうとしていた血は今にも骨を砕きかねない手に伝いシャツの袖口に染みを作って、他の余分なものは地面の上に落ちていた。よくもこんな腕で引き鉄が引けたものだと感心するが、思うよりもずっとそれは容易いことなのかも知れない。
銃、なんざ。反吐が出る。
「こんなモンまで使うようになったとはなァ……?」
「勘違いしないでくれる?俺の趣味じゃないよ、こういうのは」
今日も今日とて見事な放物線を描いただろう自販機の金属部分でざっくり抉れた彼の傷口は、云うのも憚られるくらいには惨状だった。赤くて、白い。何がとは云わない。失血で色褪せている顔以外には何の見物もなかった。
ああ、本当に。
「死ねよ……」
「ねーシズちゃん、もう降参。キツイ。見逃して?」
「今すぐ死ね」
「まーた、またぁ……」
けふ、と奇妙に鳴る咽喉がぞっとするほど弱弱しいことに滅茶苦茶腹が立つ。死んでしまえばいい。野垂れ死んでしまえばいい。そうやって勝手に死んでくれればいいのに、こういうのは何かが違うのだともわかっていた。何処かに何かが引っかかって段々と気が殺がれていく。
じわじわと痛みで縊っていくような。
真綿で頸を絞めるような。
静雄は唇を噛んで、心がけて意識し、掴んだ腕の力を緩めていた。
「俺の目の前から消えろ、ノミ蟲……もう池袋に来んじゃねぇ」
「頼まれなくてもそうするって……、あ、でも、運び屋呼んでくれる?」
「テメーで呼べ!」
「ぶー……、そうケチだからいつまでも貧乏なんだよシズちゃんは」
誰の口をしてそうほざくのかと、再び青筋立った静雄は片手を振り上げた。
拍子にサングラスがすっと顔から落ちる。いや、落とされていた。
「ッ、に」
「目ェ、……閉じなよ、いなくなってやるから」
小莫迦にするような。その嗤う声。
そう云って間髪置かず張り手をする勢いの手がべちいんと静雄の目を隠した。
作品名:soundless / なにもきこえない 作家名:toro@ハチ