ロストブルーフィルム
パンプティ
遠い街の喧騒と共に忍び込んでくる風の音にゆるく目を覚ますと、ヘッドボードに凭れて経済誌を腹にうつ伏せにしたまま転寝している折原臨也の姿が目に入った。広い枕の上、ちょうど真下から彼を見上げる場所に埋もれながら、ぼんやりと出会ったときよりも少し伸びたらしい彼の前髪が、白い鼻先を隠したりして揺れているのを見上げる。
珍しいこともあるものだと、帝人は目を細めていた。けれどすぐに思考は痛みの方に逸れて、両腕で顔を覆い、怖がるように肺の中に空気を入れる。
ここ数日、頭を使うことも体を使うことも増えて、向き不向きで云えば肉体労働的なことには俄然不向きらしい体は、疲労の蓄積が酷かった。横になっていても眩暈がする。目を閉じたって頭の中はぐらぐらしている。それでなくても近頃は気分の悪くなることが多くて参っているのに、体のあらゆる機能が悲鳴を上げていて、どうすれば良くなるのかすらわからなくなってしまいそうだった。
( それなのに、)
最優先されるべき睡眠時間を確保せず、フィジカルとメンタルの休息に充てられるはずだった時間の殆どを違うことに費やした。
身じろぐと、ぴり、と肩付近の皮膚が引っ張られる。シーツと引っ付いて傷が乾燥してしまっていたらしく、すぐにじわりと滲む感触が広がって、結構大きな怪我なのかも知れないと手を伸ばしながら、帝人は片腕の下から明け方の空気を見ていた。そういえば乱暴に扱われたわけでもなく、まして処女なんかでもないのに、セックスの最中は血の臭いがたえなかったな、と不意に可笑しさが込み上げる。誰も起こさないように息を殺せば、手には滑りがあって、やっぱりそうかとその手の平をシーツに擦った。空調が効いているのに窓が開けられている違和感はそれらしかった。
( この、)
腹の奥から湧き起こるセンチメンタルじみたものは何だろうか。
すごく懐かしい何かが焼き切れてしまいそうだのに、じり、じりと窮まっていくだけで何も変化はなかった。いっそ喉元まで込み上げてくるこの名前のない感情の塊が、気管に詰まって窒息しそうにでもなればいいのに、そんなことは夢ですらない。
「人って、愉しくても悲しくても誰か殺したくても笑えるから怖いよねえ」
「……そんなこと思ってもない人だって笑いますもんね」
「それって怖い?」
「静雄さんの気持ちがすこし、わかるような気がするだけです」
人が起きるときに感じる変化なんか言葉では説明できないが、そんな気配すらなく彼はいつしか目を覚ましていたようで、帝人が含みを持たせた返事に臨也は機嫌よさげに表情も変えずふうんと鼻に声を逃す。
「静ちゃんの、とか 、そんなことはさ」
人並みに温かい手が帝人の腕に触れた。
条件反射のようにその手から逃れようとするのを許さずに臨也は力をこめる。
「… 、」
「ねぇ」
掴んで、引き寄せて、べろりと日焼けのない腕の裏を臨也が舐めた。心底嫌がる目下の帝人の表情が彼にはたまらなく愉快で、ついやりたいようにする。かつてそういう部分を含めて、中学からの付き合いの誰かには悪趣味だと罵られたことがあったのだが、意に介してそれは彼にとっての褒め言葉に近かった。
低体温な皮膚の薄いところを嗤う口唇が辿る。
「 、離 せ」
「イヤだよって云ったら君は何をするのかな」
すんなりと持ち上げられたその腕は解放され、面白くもなく沈黙が水を打った。
戻された腕を見る帝人は途端に無気力になったようにしていたが、感情のこもらない乾いた声で静けさを掻く。
「……躾のなってない犬みたいだ」
「犬かぁ。云う事はちゃんと聞くよ?離せって云うから離したじゃない」
「理屈を並べ立てる分扱いが面倒です」
「忠実なフリをしてあげられるよ、人だからこそ犬よりもね」
ブラインドの隙間から入り込んでくる朝の光が白々しく肌を明かして、掻き乱されて小さな山を作ったシーツの向こうで彼は足を組みかえた。交わす会話が皮肉を丁寧に織り込んだものだとしても、響かないふたりにはあまり意味を成さない。まして犬のようだと言わしめたところで笑って見せる臨也に、奇妙な安心感を抱いた帝人の方が感化されているに過ぎないのだとしても、それは本人の与り知らぬことだった。
腕に、糸切り歯で噛まれた赤い痕。
「あーあ、さっきまで夜だと思ってたのにもう朝か」
輸入版の薄っぺらな経済誌を床に放り、シーツの外れた剥き出しのベッドマットにずるずると臨也が仰向けになる横で、帝人はおもむろに目を閉じる。
夜は長くても。夜は短くても。
少なくとも学生として過ごす時間が人生の大半を占める中で、帝人にとっての夜に対する認識は、一様に日陰の部分を呈すことが多く、夜を長いと思うそこにこそ人の寂しさが隠れてるんだと、誰かが云っていたことを思い出すと少しだけ気が緩んだ。その話には少しだけ続きが、あって、
( だれ が、)
今となっては遠く、古く、かすんでしまいそうなそれを繋ぎ止める方法を知らない。
「だけど帝人くんは寝ないと、このままじゃ学徒不健全だね」
「……寝れないから寝たくないんです」
「子供みたいな屁理屈こねないで寝る努力しなよ、」
云い終わるよりも先にふと影が落ち、目を瞬かせたのは臨也の方で、顔の両側に突っ張られた腕の上から見下ろしてくる冷めた目にやんわりと表情をほぐした。
「でないと壊れるよ?どこか」
「僕は壊していいと云いました」
「でもそれが望みだとは云ってない」
「望みです」
「嘘ついて、舌、閻魔様にとられちゃうって子供が泣いてたなぁ」
誰が子供に嘘を教えるのかと問われればきっと、大抵が、大人だと答える。
所詮は15歳の人間、23歳の人間、果ては114歳の人間しかこの世にはいないとしながらも、わざと子供や大人という言葉の区別を用いる彼に帝人は異議を唱えたりはしなかった。ただ薄く開かれている口を塞ぐようにぐっと手を押し付け、そしてその手を易々ととられて引きずられる。これを待ってたんだろ、と云われて伸び上がるようにされるキスに、そのまま帝人は抵抗せずに媚びた。舌を入れられ気持ちの悪さに引きかける顎をついと掴まれ、それを見透かす赤い目に醜い貞操を問われて、視界が歪む。
「――…、 ッ、 ん、ん… !」
器用に、玩ぶように舌の根まで絡めて、結果としては肉欲なんかよりも人の後ろ暗さを引きずり込むその感覚が折原臨也にとっては恍惚だった。根本的なところで他人に突かれると痛む場所を彼はまだ持ちすぎていて、云えば人らしくありすぎていて、そういったものが音を立てて崩れていくのがよくわかる。
「知ってる?そんなんじゃどうしようもなくなるばかりだって」
それは珍しく揶揄もない助言だが、やはり彼には響かないものであるらしかった。臨也の肩口に項垂れて竜ヶ峰帝人は肩を喘がせ何も答えずにいる。そうして暫らくした後に感情の伴わない短い台詞が呟かれると、目を眇めて臨也は声なく嗤った。
作品名:ロストブルーフィルム 作家名:toro@ハチ