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春を待たずに綻びる【ほんのり腐向け】

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がたりと椅子が引かれる音で顔を上げる。蛭湖は手元の文庫本にたいした名残惜しさを感じる事なく、栞も挟まずに本を閉じた。

「ごめん、待ったでしょ?」
「いや、待ち合わせ時間よりも早いくらいだ」

 蛭湖の前の席に中性的な容姿の人物が腰を下ろす。彼とも彼女ともつかない人物は、くすくすと小さく笑ってウェイターに紅茶を注文した。
 華奢な体、膝まで裾があるロングシャツと細身のパンツ、少しごつめの編み上げブーツ――徹底的に両性の特徴を排除・中和し、どちらともつかない恰好をした人物がにこりと笑う。

「相変わらずそうで安心したよ」
「お前も健全そうな生活を送っているようで安心した」

 蛭湖がそう返せば葵は小さく吹き出した。葵は昔からよく笑ったが、今のような年相応のおかしいときにおかしいと笑う顔の方が蛭湖は好きだった。
 昔の葵の笑顔は他に適切な表情が思い浮かばないからとりあえず笑っているだけ。あるいは情緒の不安定さの顕れ。その笑顔には常に自虐が込められていた。
 徹底的に中性に徹しているといっても今の葵の姿は何処にでもいる学生そのものだ。蛭湖もシャツにブラックデニムという何の変哲もない恰好なので、端から見れば社会人と学生の恋人同士に見えるのかもしれない。

「そういう蛭湖は相変わらず不健全な生活?」
「まあな」

 火影が終わってから、葵は憧れていた表の世界に飛び込んだ。石島土門の実家が経営する花屋でバイトをしながら思う存分青春を謳歌している。
 実際バイトをしなくてもいいだけの貯蓄はあった。あのあと森光蘭の所有していた資産や財団の事務処理を行い、ちゃっかり葵は一生働かなくてもいいだけの取り分を持って行ったのだ。それは蛭湖も似たようなものなのだが、葵の場合「今までただ働きだった分ぶん取らなきゃ」と吹っ切れたように満面の笑みで遠慮なく持って行ったので、若干の恐怖を感じたものだ。
 蛭湖も蛭湖で自分の取り分は確保していたし、趣味らしい趣味もなく金だけは貯まっていく裏家業であったから、金銭面だけでいえば平和になった今働く必要は全くない。

「殺しはしていないが……そこに近いものではあるな」
「用心棒だっけ? 今まで培ってきたノウハウを活かせると思えばいいんじゃないかな、世の為人の為ってね」
「確かにあの頃よりは充実している。自分で護衛対象を決めるからな」

 能動的に指示されていたことを行っていた裏麗時代とは違い、今の蛭湖は仕事の相手を自分で選んでいた。護衛という職業柄、どうしても裏の世界の住人を護ることが多い。端から性根が気に食わないと思った依頼人は断り、必要悪を知った上で心のどこかで傷ついていられる人間――気付けばそういった相手とばかり仕事をしている。
 出された紅茶を一口飲んで葵は口元を綻ばせる。シュガースティックが封を切られて転がっているのを見て、蛭湖は不思議に思った。

「確か紅茶もコーヒーもストレートで飲んでいなかったか?」

 そもそも葵が美味しそうに飲んだり食べたりしているところを蛭湖は見たことがない。葵の食事風景といえば、味の良し悪しは二の次のような顔で黙々と食べるか、にこにことそれしか表情を知らないのかというように笑顔で食事するかの二択だ。
 今の葵は自然な表情で紅茶を飲み、ほっとしたような顔をしている。

「ああ、一緒にバイトしている霞ちゃんが砂糖もミルクもいっぱい入れて紅茶やコーヒー飲むんだ。それ見てたらなんか可愛いなぁと思って真似してみたんだけど、これが結構嵌まっちゃって」

 甘党な女の子って可愛いよねぇ、と健全な男子高生のような口振りで葵が言う。

「……女子高生イメージプレイが続いてるぞ」
「いいんだよ、ボクはボクだから」

 あの葵が自己肯定の言葉を口にする。そしてまた美味しそうに紅茶を一口飲んだ。

「お前は本当に変わったな。以前のお前はそんなこと言わなかったのに」

 蛭湖は葵の生い立ちを知っている。
 一緒の組織で同じ立場につくということで、まるで取扱説明書のような資料を四死天着任前に渡されていた。担当者だという研究員が「失敗作だ、人の形をしたただの木偶だよ」と零していたのを思い出す。
 男か女か一見して分からない容姿。本人に思わず性別を尋ねれば「体は男だよ」と淡々とした調子だった。
 ならばその心は、と尋ねようとして蛭湖は言葉を飲み込んだのだ。干渉も同情もすべきではない。興味や関心など以っての外だ。

『別に男だとか女だとか、どうでもいいよ。ボクに求められていたのは、森様に忠実な炎術士の人形。ボクにはその炎がないんだ。なら、』

 もう一方の、葵とは対照的に成功作と呼ばれる蓮華というクローンは、肉体は完成された女だが精神構造が未熟過ぎて目覚めていないとのことだった。
 せめて忠実であろう、と痛々しいまでの健気さで任務に励む葵を見て、その姿は間違いではないものの正解でもないと思った。
 性別を求めなかった葵は、男とも女ともつかないまま葵という個体として生きている。

「結局まだ女子高生のままなのか?」
「うん。やっぱり一回女生徒として振る舞っちゃうとそれが身体に染み付いてるみたいでさ。男子生徒で転校し直しても良かったけど、烈火さんたちみたいな体育会系のノリについていける自信ないし、明るく活発な女の子で通すことにしたよ」
「火影の面々は何も言わないのか? 確か花菱烈火には話したと聞いていたが」
「烈火さん、最初物凄い顔してたよ。でも柳ちゃんがボクのこと女友達みたいに扱うから、烈火さんも流されたみたい」

 葵は自分の生い立ちは火影の面々に話したそうだ。男なのか女なのかという疑問も、蛭湖のときと同じように「体は男だと思う」と濁したらしい。
 その返答に対して追及はなかったそうだ。「体は男」という話も軽く流されたというのだから、あのメンバーは性別やかつての立場を抜きにして葵に接しているのだろう。
 思わず零れた小さな笑いに葵が怪訝そうな顔をした。

「いや、良い友達をもったな」
「本当にね。ボクには勿体ないくらいだ」
「皆お前だから気に入ったんだ。そんな言い方はないだろう」
「ふふっ、君も変わったよねぇ。以前はそんな説教臭いこと言わなかったのに」

 蛭湖なりに以前から葵のことは気にかけてきた。蛭湖は葵のサポートとしてよく任務に同行していた経緯もあったし、決して戦闘向きとはいえない葵の盾が自分の役目なのだと当然のように思っていた。

「キリトにからかわれるくらいには過保護だった自覚があるぞ」

 その時の彼女は無邪気な少女の姿をしていた。だからこそずけずけと思ったことをストレートに口にしてからかってきたのだろう。あれが年老いたキリトであったなら、心底意地の悪い笑みを浮かべて厭味を言ったに違いない。

「それは初耳だなぁ」
「当たり前だ、こんなこと言う訳がないだろう」

 裏麗時代は互いを仲間等と思ったこともなかった。同僚と呼ぶのがしっくりくる関係と距離を取っていた。
 それなのに誰よりも葵のことを気にかけていたのだ。初めから同僚の枠では収まらないくらいに構い倒したかったくせに、強いて自分を律していた。